2か月ほど前から、断続的に村上春樹の長編『ねじまき鳥クロニクル』を読み直して、一か月ほど前の誕生日を何日か過ぎた夜、読み終えた。ちゃんと通しで読むのは何年ぶりなんだろう。いや、考えるまでもない。ねじまき鳥の初版が出て以来、ということになるのだから、1995年以来ざっと27年ぶり、ということになるのだ。いやはや。
で、どうだったのか。
実は、面白かった。そして、久々に「小説の力」というものを感じた。
ぼくは一時期までは、かなり良い小説の読者で、ほぼ日常的に小説を読んでいたし、このような小説の力が持つ恩恵のようなものを浴びるようにして生活していたのだ。
そう、ある時期までは、確かに。
ところがぼくは、いますっかり小説を、というか物語を読まなくなった。
本を読まなくなった、ということではなく、小説や物語を読まなくなったのだ。まったく読まなくなった、というのでもなく、例えば村上春樹の新作が出れば買って読む。でも、そのようにして必ず読む、という作家や小説のジャンルは明らかに減ってしまった。一方、小説以外のさまざまな本に目を通すことが増えた。いや、本とは限らず、パソコンやスマートフォンのディスプレイ越しにさまざまなSNSや活字媒体を読む時間が増えた、とも言える。
何故そうなったのか。
しばしば老眼が進んで、とか、仕事の関係で、とか。言い訳をしてきた。
また現実的な問題として、仕事以外に市民活動、ボランティアなどに力を注ぐようになって、そちらに時間を使っているから、ということもあるだろう。本を読む時間を取るより、チラシをつくったり、議事録をつくったりしていたのだ。
それはそうなのだが、さて。本当はどうなんだろう。
物語を読む。
その時、ぼくはその世界を生きている。
物語の主人公たちの生活の機微や、生涯に一度の大冒険の顛末や、堂々巡りする恋愛模様や、奇想天外な世界観の中で想像したこともない感覚に包まれての冒険また冒険。本を手に取り、ページをめくる度に、それまで予想していなかった世界が開かれた。それを、体感する。
そういうことがあった。
それはもちろん、生きる、実生活を生きる、ということとは違うことだが、でも、他に適当な言葉がなかなか見つからないような体験。生きる、に近い体験になる、いつも必ずということではないにしても。
それが、ぼくにとっての物語、小説を読む、ということの意味だったのだ、たぶん。
(今なら、さしずめゲームを、特にロールプレイング・ゲームの類いを考える方がリアルなのかもしれないが)
それは、同じ本を読む、と言っても、仕事の必要に応じて読む本などとは明らかに質の異なる行為だった。
もちろんそれは、その小説、物語の持つ力、の出来不出来に大きく左右された。出来の悪い小説の場合は、特別なことは何も起こらない。つまり、物語の中を生きる、というようなことは起こらない。いや、どういうのか、何も起こらない、ということではないにしても、その時起きているのは、歯を磨いたり、コンビニでおにぎりを買うのとあまり違いがない。
にもかかわらず、ぼくはそういう玉石混交の膨大な小説の山を、日々せっせと取り崩しながら読んだものだ、若き日には。
本当によくそんなことが出来たものだ、という気がするほどだ。
そんなことが何故出来たのか。
と考えると、結局、時間があったから、という答えに行き着く。
若い頃は、どんな馬鹿げた行為でも、ほとんど気になったりはしないのだ。何はなくても時間だけはある。
それが若さだ、そうともそれが青春だ〜!(という番組があったな)
ぼくの場合なら、大量のSFを読んだ。火星に行って、火星のプリンセスを助けて結婚したり、見えない生物に実は意のままに操られていることを知った科学者の謎の死の真相に迫ったり、というようなことにわくわくドキドキしながら飽きもせずに読みあさったわけだ。
昔々のことだけれど、スタージョンという作家がうまいことを言った。
彼はあるSFファンが集まった大会でゲストスピーカーとして壇上に立ちこう言ったのだ。
「SFの90パーセントは屑である」
彼を神のように崇拝するファンの前で、だ。
会場は水を打ったように静まり返ってしまった。
ところで彼は続けてこう言った。
「すべてのものの90パーセントは屑である。だから諸君の問題は、その残りの10パーセントを如何にして見分けるか……」
どっとどよめき、笑い出し、ほっとして拍手喝采し始めたファンたち。すべてのものの90パーセントは屑である……後日これをして、スタージョンの法則、と呼び習わすようになったという。
真にスタージョンは正しかった。
すべてのものの(ということは、人生の)90パーセントは屑である、として、それを気にしないことが「若さ」なのだ、とぼくは定義してみたい。(トコロの定義だ)
逆を言えば、90パーセントの屑を恐れるようになることこそ、老いるということなのかもしれない。(トコロの仮定だ)
だからまた、乱暴な言い換えが許されるなら、昨今の、効率ばかりを追い求める日本の社会を見るにつけ、そこに「老い」を見つけざるを得ない、ということでもある。
さて、もう一度、話を村上春樹に戻そう。
27年ぶりに読んだ「ねじまき鳥クロニクル」は、面白かった。そして、いろんなことを考えさせてくれた。というか、思い出させてくれた。そうそう、ぼくは昔、浴びるように小説を読んでいたんだ、というようなことを。
ねじまき鳥は、全三部3巻の長編小説で、一旦二部まで書かれて、作者村上自らが完結した、と明言したものの、読者から物語が完結していないのではないかとの声が多数上がり、一年後に無かったはずの第三部が突如書き下ろで発表される、という経緯を辿った。
このエピソードが語っているのは、小説、物語こそ、「効率」から遠いものだ、ということだ。
本は本でも、実用書などは、効率的に読むことだって、可能だろう。と言うより、正に効率的な知識の摂取こそがめざされている本なのだ。
だが小説は、効率的に読むことは出来ない。というか、してはいけない。
それは、いわば小説が、うまく書かれた時には「生き物」になる、ようなものだからなのだ。効率的に読む、という行為はその生物を殺してしまうことになりかねない。
比喩的にせよ、何故そんなことが言えるのか。
今回、ねじまき鳥を(というか、小説というものを)読み返していて感じていたことを言い表すのは難しい。そこでは、言葉は主人公を急がせたりしない、そこで右に曲がれ、とか、何時までにどこへ行け、などと指示することもない。主人公は彼のペースで語る、考えて、感じる。そのように言葉が使われている。時には延々と回りくどく、目的地すらわからない。
そういう言葉の世界に浸って読み進むうちに、ぼくは久しぶりに何かを思い出していたし、何か体の奥底の方で凝り固まっていたものがゆっくりと解けて、溶けていくように感じていたのだ。久しぶりに、効率に縛られない、生きた言葉に出会っていたのだ。そして、その言葉が少しずつぼくの心と体に染み込んで、固い強張りを少しずつでもとかしてくれたに違いない。
そのことで逆に、普段ぼくが読んでいる言葉が、本が、如何に味気ない強張った言葉で書かれているのか、ということに思い至る経験でもあった。それらの言葉、本の大部分は、役に立つ、すぐに使える、ように書かれていて、その言葉を読むぼくたちにも、もっと早く、急げ、これが正解だ、もう時間がないぞ、もっと効率良く、と叱咤激励をしてくるのだ。
(人生における)90パーセントの屑を恐れ、時間がもうない、と嘆き、焦って効率を求める。それが老いるということのひとつの側面なのだとすれば、それは実はぼくたちに、半ば以上無意識に、「生きる」ことをスルーし、手放すことを勧め、時には強制する。そうなっていないかどうか、疑ってみた方がよい、ということなのではないか。
そしてぼくは久しぶりに村上の小説を読み返す中で、少しだけ、束の間ではあれ、「老い」の呪縛から開放され、物語の中で物語の時間を生きることが出来た。ぼくは溜まっていた疲れが抜けていくことを感じ、如何に心が疲れていたかに気付かされたのだ。
* * *
大変有り難いことなのだけれど、柏市民新聞の元木記者にお声掛け頂いて、6/10発行の同紙の「顔」欄に取り上げて頂いた。一週間くらい前に髙島屋の中のちょっとクラシックな喫茶店内で待ち合わせて話を聞いて頂き、そのあと建物を出たところで写真を撮って頂いた。
ぽくの誕生日は6/11日だから、発行の翌日には年齢がひとつ増えたのだが、記事の中では年齢は10日時点の年齢になっている。なんとなく、年齢詐称のようでもあるが、有り難いような気持ちも正直あって、自分でも可笑しい。
いよいよぼくも紛れもなく前期高齢者、ということになって、正直なところ、日々自分の老いに向き合って生きている。考えざるを得ない。どうしても、つい、考えてしまう。
若い頃にはあんなにあった時間が、もういくらあるのか分からない。もちろん、人は例外なく、いつかその時間が尽きて、どこか別の世界へ、旅立たねばならない。
それを忘れて生きることは難しい。
そして、若い頃に漠然と予想していたのとは違い、老人は自分の人生に自足しているわけでもなく、焦らず、ゆったりと落ち着いた時間の中にまどろむ、などというわけにはいかなかったのだ。(もちろん、幸運な例外もおそらく、いるに違いないが)
さて、残された人生を如何に生くべきか。今日も答えを捜しあぐねている。