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最近書いたもの、昔書いたもの、取り混ぜて。

2023/04/17

 安倍一強の自民党政治以来、こうしたこと(欺瞞と無責任)が積み上がって来た。(枚挙にいとまが無い、という言い回しがあったっけ)

 エネルギー(原発に戻る愚)は元より、経済(アベノミクスと黒田日銀の異次元緩和の崩壊)も、福祉(介護保険の改悪、保険証の廃止とマイナンバーへの強制的統合)、憲法の「改正」ですらなく無視しての敵基地攻撃能力と巨額防衛費の軍事大国化、歴史修正主義と教科書検定や学術会議、マスコミ他への(人事)介入。それらの背後には旧統一協会との癒着選挙があったことまでが明るみに出た。

 それでも我々はこの政治を他に選択肢がない、などとして選挙で常に支持して来た、とまでは言わないにしても、スルーし見ない、声も上げないことで許し、見逃して来た。それは紛れもなく事実ではないだろうか。

 それは結局のところ、我々一人ひとりの責任という他はない、と言うべきだろう、とわたしは思っている。

 1980年代、ジャパンアズナンバーワン、21世紀は日本の世紀、などと(浮かれた虚妄にせよ)言われた時代があったことを覚えている人は未だ多いだろう。

 私たちは驕っていたのだ。たかをくくっていたのだ。

 いや、自民等の一部の老害たちは今でも過去の虚妄にしがみついている。なんという醜さか。

 父や母の介護を経験した時に感じたことがある。

 健康が崩れかけた時、風邪のひき始めとか、何か予兆がある、そういう時にこそ、自分の用事とかは一旦横に置いて、全力で出来ること(ヘルパーさんと相談する、病院に連れて行く、他単純なこと)を短期集中でやる。そうすると、落ちかけたカーブが戻って、やれやれひとまず安心、という状態に戻ってくれることが多い、と。

 でも、予兆があるのに、今ちょっと忙しい、とか言って後回しにすると、気づいたらカーブを随分と下まで落ちている。慌ててもそこからもう一度やれやれひと安心、まで戻すのは大変なのだった。何倍もの労力がかかるし、時には戻せずに肺炎で入院、とかになってしまう。

 2014年だったか15年だったか、ある時を境に、わたしは急にfacebookで政治的な発言を始めた。

 それは、ある記事、だったか報道を観て、これはマズい。放置して良いことではない、と感じたからだった。

 でも、その止むを得ずした発言は、短期集中のつもりだった。

 予兆を感じて、だからこそ今対処した方が良い、と思ったのだ、そう、父や母の場合と同じように。

 誰もfacebookで政治的な発言などしていない中で、こんな場違いなことを、と思いつつも、まさかこんな馬鹿なことが長く続くとは思えないし、そんなに遠くないうちにこんな投稿はやめられるだろう、と思っていたのだ。最初のうちは。

 言わば炭鉱のカナリヤのつもりで、ピーチクパーチクと呟いていた。

 ところが、やめたかったが、やめられなかった。

 それなりにまともな筈だろう、と思っていた、国政を担う政治家たちが思いの外トンデモな人間たちであることが見えて来たからだ。

 だが、ことを愚劣な政治屋たちだけのせい、とするのはお門違いだろう。

 そう。わたしもお気楽なノンポリ人間だったのである。自慢ではないが、政治も経済も知らない。会計や経理なんて、一生知りたくもない、と不遜にも思っていたような人間だったのだ。(それで何とかなっていたのは、束の間の日本が、本当に悲惨な敗戦からの復興という課題に、今にして思えば、僥倖とも思えるほんの一瞬だが、政治や官僚、民間、みんなが総力を上げて取り組んでいた時期だったから、なのだろう。そこに今のような空っぽな政治屋たちの付け入る隙などなかったのだ。)

つまりは、これは予兆なんかではない。我々は坂道をまさに転がり落ちている最中なのだ。

 そう気づいた。そして本気で、いささかトンチンカンな発言をし続けることになった。こんなことに意味があるのか、と思いながらも。

 東電は近く総務省だかどこかに、平均三割の値上げ申請をすると聞いた。

 三割。

 大したもんだ。異次元の値上げだね。

 この10年、原発を廃止するはずが逆で、代わりに再生可能エネルギーへの転換を潰しておいて、これかよ。

 残念だけど、炭鉱のカナリヤはとうに二酸化炭素中毒か何かで死んでしまった。我々は地下深く、刻一刻失われつつある空気を求めながら、救いもなく、暗闇にうずくまって救助を待っている。

 こんなはずでは無かった。でも、きっと救助は来る、はずだ。と弱々しく呟きながら。

 いまだ、明かりは、見えない。

2023/04/14

 どういう訳だか、一年前から某市の市民活動補助金の審査委員(というか、ギッチョ、じゃなくて議長)をやっている、エヘン。

 ほとんどお金にはならないのだが、審査の為にはたくさんの申請書類を読まなくてはならず、読んだ後は審査書類をつくらねばならず、委員が集まって審査会をやらねばならず、中間報告や、今日そうだったように、事業成果発表会に出席して、ギッチョとして(正確には、わたしは右利きである。…じゃなくて議長として)講評みたいなこともしゃべらないとイケナイ。特に、この時期は、今年度の事業団体の最終評価と、来年度の申請団体からの申請書を読んで審査する過程が重なっており、一昨日は来年度申請団体の仮審査書類の提出日であったため、何だか夏休みの宿題を31日になっていきなり片づけている子どもにでもなったようにひぃひぃ言って(実際には言っていない、もちろん)なんとか提出した。

と、いうようなことは、あくまでバックグラウンドの話であって、本題とは関係ないのだが、要は上記の事業成果発表会に、遅刻しそうになった(正確には、遅刻した)話である。

 もともとワタシは、ほっとけば遅刻するのがデフォルトのタイプである。(居直っているのかオマエハ)

 しかし、長年ニンゲンをやっていると少しは社会化されて、今日なんてちゃんと、予定の時間の10分前には、某市の庁舎前に到着していたのである。

 ふふ、ぎりぎり、セーフだな、と庁舎の建物に向かいつつ、ところで庁舎の何階だったっけ? と思い、iPhoneのカレンダーを見たのだった。ところが、何か不思議な文字列が目に飛び込んできたではないか。

 ◎◎市民活動推進センター 大会議室

 ……ん?

 なんか、オカシくね?

 胸騒ぎを感じつつ、庁舎に飛び込んだが、考えてみると今日は土曜日。役所はやっていない、何か業者さんが工事か、改修をしている気配。

 遅ればせに、市民活動推進センターって、ここじゃないよね?

と気付く(遅いぞ、ヒデアキ!)。

 もしかして、またやったか(ギャッ)。

 脚が既にもつれそうになりながら、やみくもに庁舎から道路に、駅の方向に小走りで走り始めている。

 焦るな、まだ時間まで、6分、いや、5分はある。

 …やばい。どう考えても遅刻だ。

 タクシーはどこだ。

 いや、まず、会場の担当職員に連絡して…。

 流石のワタシは冷静沈着に、しどろもどろになりながら、センターの電話番号に素早くアクセスし電話している。

 「ぼくはあの、実は今日の、成果発表会が、実は◎◎時からなんで、遅刻、いや、これからタクシー。あの申し遅れましたがそれがしはギッチョ、いや、その発表会の議長なですが、だから居ないとやばい、遅刻。と担当職員さんに伝えて下さい!…」などと訳のわからない電話をするも、冷静沈着な受付の女性が、職員に伝えると請け合ってくれて、ちょっとほっとしつつ、ではタクシーだが、タクシーはどこに居るのだ?

 気がつくとそこは交差点だった。

 たくさんの車は走っている。だがタクシーはいるか。そんな都合よく来るものか? 

 目はせわしなく、信号で停車中の路上の車輌に注がれる。すると、対面から車輌の上に何らかの社名らしき突起物をつけた車が来て停車した。あれは、確かに、タクシー。空車か、客が乗っているのか。

 ワタシはわからないままに、手を振った。大きく伸び上がって懸命に手を振った。まだ信号は赤。は、早く青にならんかい!

 車がどっと動き出し、タクシーはこちらに寄ってくる。ああ、神様。

 ところが、回送、の文字がフロントガラスの奥に。

 しかし、タクシーは停車した。

 「あのあの、実はすごく急いでいて、遅刻」

 「いま、東京から来て、帰るところなんだよね、回送中だから乗せる訳にいかないんだよ」

 「そ、そこをななななんとか、遅刻する。いやもう遅刻した。」

 「お金ももらえないんだよ」

 「ええ、いや払いますよ払う」

 「じゃ、仕方がない乗せてあげるけどどこへ行くの。全然土地勘がないからわからないよ」

 「そそそそれは、このスマホを見て頂ければ」

 「これは、その、どう見ればいいの?」

 「いやつまり、そのルートが。あのあの、わたしが指事を出しますので、取りえず前進して下さい。その道を行って次は左折じゃなくて右折」

 「じゃあ行ってみるか」

 「すみませんすみません。お金は払います」

 「だから、お金もらえないんだよね」

 「そんな、会社にばれるとマズイなら個人として受け取って頂く訳にはいかないんですか」

 「個人事業主だけれどさ、だめなんだよ」

 「えー、そこその先で右折お願いします、でも1000円だけでも」

 「ここ? もうひとつ先? …まあいいよ、とにかく行くんだろ?」

 「はは、ははい。よろしくお願い致します。すみません」

というような会話を交わしつつ、距離にしてどのくらいだろうか、そんなに遠くはない、一駅くらいの距離をGoogle君に言われるとおり、一か所通常なら絶対通らない未舗装の狭い道まで無理やり通り抜けて向かったのだった。そして目的地のセンターがすぐ側の駅のロータリーで下ろしてもらう。

 「本当にすみません、助かりました、千円払っちゃ駄目ですか?」

 「いいんだよ」

 「せめてお名前だけでも」

 (笑っている)

 (泣く。泣いてないけれど)

 「すみません、あなたに幸運が訪れますように」

 そしてワタシはセンターに向かって走った。よたよたと。

 センターに着き、受付で焦る気持ちをなだめつつ「大会議室」を聞く。3階だ。

 エレベーターに乗る。3階に出る。受付らしきものがあり、そこに担当課の課長の姿が。

 「すみませんすみません、遅刻」

 「いや、入って下さい」

 そのまま会議室に入る。時計は、定刻を4、5分過ぎていた。満席の中、裏からまわりたかったが、席は一番前、前からとうながされて、プロジェクターの光を遮りつつ前の席に座る。周りの委員や、職員に小声で謝り頭を下げる。ちょうど司会進行の職員さんが挨拶を始めたところだった。「少し遅れましたが、みなさんおそろいになりましたので、これから…」

 なんとか、間に合ったのか?

 どっと汗が吹き出ている。

 「…では、始めに議長から、ご挨拶を頂きたいと思います」

 マイクを握る。立って、参加者を振りかえり、ぼくは挨拶を始めた。

05/07/2022

‍ 2か月ほど前から、断続的に村上春樹の長編『ねじまき鳥クロニクル』を読み直して、一か月ほど前の誕生日を何日か過ぎた夜、読み終えた。ちゃんと通しで読むのは何年ぶりなんだろう。いや、考えるまでもない。ねじまき鳥の初版が出て以来、ということになるのだから、1995年以来ざっと27年ぶり、ということになるのだ。いやはや。


‍ で、どうだったのか。
 実は、面白かった。そして、久々に「小説の力」というものを感じた。

‍ ぼくは一時期までは、かなり良い小説の読者で、ほぼ日常的に小説を読んでいたし、このような小説の力が持つ恩恵のようなものを浴びるようにして生活していたのだ。

‍ そう、ある時期までは、確かに。

‍ ところがぼくは、いますっかり小説を、というか物語を読まなくなった。
 本を読まなくなった、ということではなく、小説や物語を読まなくなったのだ。まったく読まなくなった、というのでもなく、例えば村上春樹の新作が出れば買って読む。でも、そのようにして必ず読む、という作家や小説のジャンルは明らかに減ってしまった。一方、小説以外のさまざまな本に目を通すことが増えた。いや、本とは限らず、パソコンやスマートフォンのディスプレイ越しにさまざまなSNSや活字媒体を読む時間が増えた、とも言える。

‍ 何故そうなったのか。

‍ しばしば老眼が進んで、とか、仕事の関係で、とか。言い訳をしてきた。

‍ また現実的な問題として、仕事以外に市民活動、ボランティアなどに力を注ぐようになって、そちらに時間を使っているから、ということもあるだろう。本を読む時間を取るより、チラシをつくったり、議事録をつくったりしていたのだ。
 それはそうなのだが、さて。本当はどうなんだろう。


‍ 物語を読む。

‍ その時、ぼくはその世界を生きている。

‍ 物語の主人公たちの生活の機微や、生涯に一度の大冒険の顛末や、堂々巡りする恋愛模様や、奇想天外な世界観の中で想像したこともない感覚に包まれての冒険また冒険。本を手に取り、ページをめくる度に、それまで予想していなかった世界が開かれた。それを、体感する。

‍ そういうことがあった。
 それはもちろん、生きる、実生活を生きる、ということとは違うことだが、でも、他に適当な言葉がなかなか見つからないような体験。生きる、に近い体験になる、いつも必ずということではないにしても。

‍ それが、ぼくにとっての物語、小説を読む、ということの意味だったのだ、たぶん。
 (今なら、さしずめゲームを、特にロールプレイング・ゲームの類いを考える方がリアルなのかもしれないが)


‍ それは、同じ本を読む、と言っても、仕事の必要に応じて読む本などとは明らかに質の異なる行為だった。

‍ もちろんそれは、その小説、物語の持つ力、の出来不出来に大きく左右された。出来の悪い小説の場合は、特別なことは何も起こらない。つまり、物語の中を生きる、というようなことは起こらない。いや、どういうのか、何も起こらない、ということではないにしても、その時起きているのは、歯を磨いたり、コンビニでおにぎりを買うのとあまり違いがない。
 にもかかわらず、ぼくはそういう玉石混交の膨大な小説の山を、日々せっせと取り崩しながら読んだものだ、若き日には。

‍ 本当によくそんなことが出来たものだ、という気がするほどだ。

‍ そんなことが何故出来たのか。

‍ と考えると、結局、時間があったから、という答えに行き着く。
 若い頃は、どんな馬鹿げた行為でも、ほとんど気になったりはしないのだ。何はなくても時間だけはある。
 それが若さだ、そうともそれが青春だ〜!(という番組があったな)

‍ ぼくの場合なら、大量のSFを読んだ。火星に行って、火星のプリンセスを助けて結婚したり、見えない生物に実は意のままに操られていることを知った科学者の謎の死の真相に迫ったり、というようなことにわくわくドキドキしながら飽きもせずに読みあさったわけだ。

‍ 昔々のことだけれど、スタージョンという作家がうまいことを言った。
 彼はあるSFファンが集まった大会でゲストスピーカーとして壇上に立ちこう言ったのだ。

「SFの90パーセントは屑である」

‍ 彼を神のように崇拝するファンの前で、だ。
 会場は水を打ったように静まり返ってしまった。

‍ ところで彼は続けてこう言った。

「すべてのものの90パーセントは屑である。だから諸君の問題は、その残りの10パーセントを如何にして見分けるか……」

‍ どっとどよめき、笑い出し、ほっとして拍手喝采し始めたファンたち。すべてのものの90パーセントは屑である……後日これをして、スタージョンの法則、と呼び習わすようになったという。


‍ 真にスタージョンは正しかった。
 すべてのものの(ということは、人生の)90パーセントは屑である、として、それを気にしないことが「若さ」なのだ、とぼくは定義してみたい。(トコロの定義だ)
 逆を言えば、90パーセントの屑を恐れるようになることこそ、老いるということなのかもしれない。(トコロの仮定だ)
 だからまた、乱暴な言い換えが許されるなら、昨今の、効率ばかりを追い求める日本の社会を見るにつけ、そこに「老い」を見つけざるを得ない、ということでもある。


‍ さて、もう一度、話を村上春樹に戻そう。
 27年ぶりに読んだ「ねじまき鳥クロニクル」は、面白かった。そして、いろんなことを考えさせてくれた。というか、思い出させてくれた。そうそう、ぼくは昔、浴びるように小説を読んでいたんだ、というようなことを。

‍ ねじまき鳥は、全三部3巻の長編小説で、一旦二部まで書かれて、作者村上自らが完結した、と明言したものの、読者から物語が完結していないのではないかとの声が多数上がり、一年後に無かったはずの第三部が突如書き下ろで発表される、という経緯を辿った。

 このエピソードが語っているのは、小説、物語こそ、「効率」から遠いものだ、ということだ。
 本は本でも、実用書などは、効率的に読むことだって、可能だろう。と言うより、正に効率的な知識の摂取こそがめざされている本なのだ。
 だが小説は、効率的に読むことは出来ない。というか、してはいけない。
 それは、いわば小説が、うまく書かれた時には「生き物」になる、ようなものだからなのだ。効率的に読む、という行為はその生物を殺してしまうことになりかねない。

 比喩的にせよ、何故そんなことが言えるのか。
 今回、ねじまき鳥を(というか、小説というものを)読み返していて感じていたことを言い表すのは難しい。そこでは、言葉は主人公を急がせたりしない、そこで右に曲がれ、とか、何時までにどこへ行け、などと指示することもない。主人公は彼のペースで語る、考えて、感じる。そのように言葉が使われている。時には延々と回りくどく、目的地すらわからない。
 そういう言葉の世界に浸って読み進むうちに、ぼくは久しぶりに何かを思い出していたし、何か体の奥底の方で凝り固まっていたものがゆっくりと解けて、溶けていくように感じていたのだ。久しぶりに、効率に縛られない、生きた言葉に出会っていたのだ。そして、その言葉が少しずつぼくの心と体に染み込んで、固い強張りを少しずつでもとかしてくれたに違いない。


‍ そのことで逆に、普段ぼくが読んでいる言葉が、本が、如何に味気ない強張った言葉で書かれているのか、ということに思い至る経験でもあった。それらの言葉、本の大部分は、役に立つ、すぐに使える、ように書かれていて、その言葉を読むぼくたちにも、もっと早く、急げ、これが正解だ、もう時間がないぞ、もっと効率良く、と叱咤激励をしてくるのだ。


‍ (人生における)90パーセントの屑を恐れ、時間がもうない、と嘆き、焦って効率を求める。それが老いるということのひとつの側面なのだとすれば、それは実はぼくたちに、半ば以上無意識に、「生きる」ことをスルーし、手放すことを勧め、時には強制する。そうなっていないかどうか、疑ってみた方がよい、ということなのではないか。

‍ そしてぼくは久しぶりに村上の小説を読み返す中で、少しだけ、束の間ではあれ、「老い」の呪縛から開放され、物語の中で物語の時間を生きることが出来た。ぼくは溜まっていた疲れが抜けていくことを感じ、如何に心が疲れていたかに気付かされたのだ。


‍    *       *      *


‍ 大変有り難いことなのだけれど、柏市民新聞の元木記者にお声掛け頂いて、6/10発行の同紙の「顔」欄に取り上げて頂いた。一週間くらい前に髙島屋の中のちょっとクラシックな喫茶店内で待ち合わせて話を聞いて頂き、そのあと建物を出たところで写真を撮って頂いた。

‍ ぽくの誕生日は6/11日だから、発行の翌日には年齢がひとつ増えたのだが、記事の中では年齢は10日時点の年齢になっている。なんとなく、年齢詐称のようでもあるが、有り難いような気持ちも正直あって、自分でも可笑しい。


‍ いよいよぼくも紛れもなく前期高齢者、ということになって、正直なところ、日々自分の老いに向き合って生きている。考えざるを得ない。どうしても、つい、考えてしまう。

‍ 若い頃にはあんなにあった時間が、もういくらあるのか分からない。もちろん、人は例外なく、いつかその時間が尽きて、どこか別の世界へ、旅立たねばならない。
 それを忘れて生きることは難しい。

‍ そして、若い頃に漠然と予想していたのとは違い、老人は自分の人生に自足しているわけでもなく、焦らず、ゆったりと落ち着いた時間の中にまどろむ、などというわけにはいかなかったのだ。(もちろん、幸運な例外もおそらく、いるに違いないが)


‍ さて、残された人生を如何に生くべきか。今日も答えを捜しあぐねている。

07/09/2021

 文章落ち穂拾いシリーズ(?)。
 いつ書いた文章なのか、ちょっと特定できない。
 朝、数名で1週間に一度(?)程度やっていた読書会(本紹介)の時に喋ったことをあとでまとめたんだと思う。
 加藤さんの思索は、この後も弛まず進む。
 そのことについても、メモを作りたいと思う。
 残念ながら、加藤さんは2019年5月、病没された。(と)

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 著者は文芸評論と共に、ある種、戦後批評(?)のようなものに長くかかわってきた。1990年代には「敗戦後論」で賛否両論を呼ぶ。1991年(ソ連崩壊)、2001年(同時多発テロ)、2011年(東日本大震災)と前世紀末から今世紀初頭に起きた大きな出来事を経て、いま、「戦後」の持つ意味と、この社会の有り様が、大きく変化するのを感じて、その内容を素描する二つの講演として昨年話した。

 それが本になっています。


 著者は、1985年、「『戦後』には一度死んで欲しい、そうでなければ、受け取れない」と新聞紙上の座談会で発言し、物議を醸します。戦後40年の時点で、「戦後」思想の継承と言う問題を、伝える側の問題から、受け取る側のイニシアチブの問題として再定義することの必要性にいち早く言及したのでした。それからさらに30年近くたち、「戦争と戦後」という枠組み自体が立脚点を失う、というところまで来ている。「戦後」自体が体験されるものではなく、学ぶものになっている。加藤さん自身も、「受け取る」側から、戦後を「伝える」側になっていた。するとその先どうなるのか。

時代は「戦後」から遠く離れて、戦後を超える思想を必要とする時点まで来てしまった。今から振り返ると、1991年以降、世界は新しい時代に入ったのだ。


 そして、2011年の原発事故を未曾有の産業災害としてとらえた時、加藤さんは自分が原発の問題をしっかりと考えては来なかったことに思い至ります。その結果、今まで考えてこなかった問題、に立ち止まらざるを得ないことに気がつきます。いままで、自分は戦争の死者との関係、というような過去とのしっかりとした関係、というところから考えてきた。実は、今回の原発事故は、過去との関係ではなく、未来の子供たちに、弁済しようもないほどの重荷を持たせてしまう、というような形で、未来への責任の問題として現れてきた。

 それは、単に当事者としての東電や国の責任を追及する(当然それは必要なことですが)だけで済むものではない、というところにその新しい性格が顔を出している。実は、どれほどの被害なのか、だれもはっきりとは分からない。ただ、目の前に巨大な、大きすぎて視野に入らない程の穴ぼこが空いている。誰もそれを直視できないほどの穴ぼこが。


 問題は、それが20年間で200兆円などと一部で言われるような、途方もないもので、通常の社会保障のシステムから逸脱するような性格を現していることにある。端的には、保険会社が、福島原発の掛け金を上げる(通常はそういう話でなければならない)、と言う代わりに、請け負うことは出来ない、と言ったことに現れている。自然や人的社会の無限性を前提として発達してきた産業社会のシステムが、内在的な限界に突き当たり始めていることの兆しがはっきりとしてきた、そういう問題なのではないか。世界の無限性から世界の有限性へ。一端何かあれば、誰も責任を取れない、そういうリスクを持つ社会の到来。


 その指摘は、1960年代頃よりあったのだが、それは言わば社会の外側からいわれるような形でしか、届かなかったものが、今回はまさに産業の構造の中から有限性の問題に突き当たったのだ。


 すると、問題はこうなる。この世界の有限性に正面から向き合い、それでも未来に希望を持つことができるような思想を如何に立ち上げることができるのか。いま、そのゼロ地点に立っている、そこから考え始めるほかないのではないか。


 かなり大ざっぱに翻案すれば、加藤さんの言っていることは以上のようなことだと思われます。