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最近書いたもの、昔書いたもの、取り混ぜて。

05/07/2022

‍ 2か月ほど前から、断続的に村上春樹の長編『ねじまき鳥クロニクル』を読み直して、一か月ほど前の誕生日を何日か過ぎた夜、読み終えた。ちゃんと通しで読むのは何年ぶりなんだろう。いや、考えるまでもない。ねじまき鳥の初版が出て以来、ということになるのだから、1995年以来ざっと27年ぶり、ということになるのだ。いやはや。


‍ で、どうだったのか。
 実は、面白かった。そして、久々に「小説の力」というものを感じた。

‍ ぼくは一時期までは、かなり良い小説の読者で、ほぼ日常的に小説を読んでいたし、このような小説の力が持つ恩恵のようなものを浴びるようにして生活していたのだ。

‍ そう、ある時期までは、確かに。

‍ ところがぼくは、いますっかり小説を、というか物語を読まなくなった。
 本を読まなくなった、ということではなく、小説や物語を読まなくなったのだ。まったく読まなくなった、というのでもなく、例えば村上春樹の新作が出れば買って読む。でも、そのようにして必ず読む、という作家や小説のジャンルは明らかに減ってしまった。一方、小説以外のさまざまな本に目を通すことが増えた。いや、本とは限らず、パソコンやスマートフォンのディスプレイ越しにさまざまなSNSや活字媒体を読む時間が増えた、とも言える。

‍ 何故そうなったのか。

‍ しばしば老眼が進んで、とか、仕事の関係で、とか。言い訳をしてきた。

‍ また現実的な問題として、仕事以外に市民活動、ボランティアなどに力を注ぐようになって、そちらに時間を使っているから、ということもあるだろう。本を読む時間を取るより、チラシをつくったり、議事録をつくったりしていたのだ。
 それはそうなのだが、さて。本当はどうなんだろう。


‍ 物語を読む。

‍ その時、ぼくはその世界を生きている。

‍ 物語の主人公たちの生活の機微や、生涯に一度の大冒険の顛末や、堂々巡りする恋愛模様や、奇想天外な世界観の中で想像したこともない感覚に包まれての冒険また冒険。本を手に取り、ページをめくる度に、それまで予想していなかった世界が開かれた。それを、体感する。

‍ そういうことがあった。
 それはもちろん、生きる、実生活を生きる、ということとは違うことだが、でも、他に適当な言葉がなかなか見つからないような体験。生きる、に近い体験になる、いつも必ずということではないにしても。

‍ それが、ぼくにとっての物語、小説を読む、ということの意味だったのだ、たぶん。
 (今なら、さしずめゲームを、特にロールプレイング・ゲームの類いを考える方がリアルなのかもしれないが)


‍ それは、同じ本を読む、と言っても、仕事の必要に応じて読む本などとは明らかに質の異なる行為だった。

‍ もちろんそれは、その小説、物語の持つ力、の出来不出来に大きく左右された。出来の悪い小説の場合は、特別なことは何も起こらない。つまり、物語の中を生きる、というようなことは起こらない。いや、どういうのか、何も起こらない、ということではないにしても、その時起きているのは、歯を磨いたり、コンビニでおにぎりを買うのとあまり違いがない。
 にもかかわらず、ぼくはそういう玉石混交の膨大な小説の山を、日々せっせと取り崩しながら読んだものだ、若き日には。

‍ 本当によくそんなことが出来たものだ、という気がするほどだ。

‍ そんなことが何故出来たのか。

‍ と考えると、結局、時間があったから、という答えに行き着く。
 若い頃は、どんな馬鹿げた行為でも、ほとんど気になったりはしないのだ。何はなくても時間だけはある。
 それが若さだ、そうともそれが青春だ〜!(という番組があったな)

‍ ぼくの場合なら、大量のSFを読んだ。火星に行って、火星のプリンセスを助けて結婚したり、見えない生物に実は意のままに操られていることを知った科学者の謎の死の真相に迫ったり、というようなことにわくわくドキドキしながら飽きもせずに読みあさったわけだ。

‍ 昔々のことだけれど、スタージョンという作家がうまいことを言った。
 彼はあるSFファンが集まった大会でゲストスピーカーとして壇上に立ちこう言ったのだ。

「SFの90パーセントは屑である」

‍ 彼を神のように崇拝するファンの前で、だ。
 会場は水を打ったように静まり返ってしまった。

‍ ところで彼は続けてこう言った。

「すべてのものの90パーセントは屑である。だから諸君の問題は、その残りの10パーセントを如何にして見分けるか……」

‍ どっとどよめき、笑い出し、ほっとして拍手喝采し始めたファンたち。すべてのものの90パーセントは屑である……後日これをして、スタージョンの法則、と呼び習わすようになったという。


‍ 真にスタージョンは正しかった。
 すべてのものの(ということは、人生の)90パーセントは屑である、として、それを気にしないことが「若さ」なのだ、とぼくは定義してみたい。(トコロの定義だ)
 逆を言えば、90パーセントの屑を恐れるようになることこそ、老いるということなのかもしれない。(トコロの仮定だ)
 だからまた、乱暴な言い換えが許されるなら、昨今の、効率ばかりを追い求める日本の社会を見るにつけ、そこに「老い」を見つけざるを得ない、ということでもある。


‍ さて、もう一度、話を村上春樹に戻そう。
 27年ぶりに読んだ「ねじまき鳥クロニクル」は、面白かった。そして、いろんなことを考えさせてくれた。というか、思い出させてくれた。そうそう、ぼくは昔、浴びるように小説を読んでいたんだ、というようなことを。

‍ ねじまき鳥は、全三部3巻の長編小説で、一旦二部まで書かれて、作者村上自らが完結した、と明言したものの、読者から物語が完結していないのではないかとの声が多数上がり、一年後に無かったはずの第三部が突如書き下ろで発表される、という経緯を辿った。

 このエピソードが語っているのは、小説、物語こそ、「効率」から遠いものだ、ということだ。
 本は本でも、実用書などは、効率的に読むことだって、可能だろう。と言うより、正に効率的な知識の摂取こそがめざされている本なのだ。
 だが小説は、効率的に読むことは出来ない。というか、してはいけない。
 それは、いわば小説が、うまく書かれた時には「生き物」になる、ようなものだからなのだ。効率的に読む、という行為はその生物を殺してしまうことになりかねない。

 比喩的にせよ、何故そんなことが言えるのか。
 今回、ねじまき鳥を(というか、小説というものを)読み返していて感じていたことを言い表すのは難しい。そこでは、言葉は主人公を急がせたりしない、そこで右に曲がれ、とか、何時までにどこへ行け、などと指示することもない。主人公は彼のペースで語る、考えて、感じる。そのように言葉が使われている。時には延々と回りくどく、目的地すらわからない。
 そういう言葉の世界に浸って読み進むうちに、ぼくは久しぶりに何かを思い出していたし、何か体の奥底の方で凝り固まっていたものがゆっくりと解けて、溶けていくように感じていたのだ。久しぶりに、効率に縛られない、生きた言葉に出会っていたのだ。そして、その言葉が少しずつぼくの心と体に染み込んで、固い強張りを少しずつでもとかしてくれたに違いない。


‍ そのことで逆に、普段ぼくが読んでいる言葉が、本が、如何に味気ない強張った言葉で書かれているのか、ということに思い至る経験でもあった。それらの言葉、本の大部分は、役に立つ、すぐに使える、ように書かれていて、その言葉を読むぼくたちにも、もっと早く、急げ、これが正解だ、もう時間がないぞ、もっと効率良く、と叱咤激励をしてくるのだ。


‍ (人生における)90パーセントの屑を恐れ、時間がもうない、と嘆き、焦って効率を求める。それが老いるということのひとつの側面なのだとすれば、それは実はぼくたちに、半ば以上無意識に、「生きる」ことをスルーし、手放すことを勧め、時には強制する。そうなっていないかどうか、疑ってみた方がよい、ということなのではないか。

‍ そしてぼくは久しぶりに村上の小説を読み返す中で、少しだけ、束の間ではあれ、「老い」の呪縛から開放され、物語の中で物語の時間を生きることが出来た。ぼくは溜まっていた疲れが抜けていくことを感じ、如何に心が疲れていたかに気付かされたのだ。


‍    *       *      *


‍ 大変有り難いことなのだけれど、柏市民新聞の元木記者にお声掛け頂いて、6/10発行の同紙の「顔」欄に取り上げて頂いた。一週間くらい前に髙島屋の中のちょっとクラシックな喫茶店内で待ち合わせて話を聞いて頂き、そのあと建物を出たところで写真を撮って頂いた。

‍ ぽくの誕生日は6/11日だから、発行の翌日には年齢がひとつ増えたのだが、記事の中では年齢は10日時点の年齢になっている。なんとなく、年齢詐称のようでもあるが、有り難いような気持ちも正直あって、自分でも可笑しい。


‍ いよいよぼくも紛れもなく前期高齢者、ということになって、正直なところ、日々自分の老いに向き合って生きている。考えざるを得ない。どうしても、つい、考えてしまう。

‍ 若い頃にはあんなにあった時間が、もういくらあるのか分からない。もちろん、人は例外なく、いつかその時間が尽きて、どこか別の世界へ、旅立たねばならない。
 それを忘れて生きることは難しい。

‍ そして、若い頃に漠然と予想していたのとは違い、老人は自分の人生に自足しているわけでもなく、焦らず、ゆったりと落ち着いた時間の中にまどろむ、などというわけにはいかなかったのだ。(もちろん、幸運な例外もおそらく、いるに違いないが)


‍ さて、残された人生を如何に生くべきか。今日も答えを捜しあぐねている。

07/09/2021

 文章落ち穂拾いシリーズ(?)。
 いつ書いた文章なのか、ちょっと特定できない。
 朝、数名で1週間に一度(?)程度やっていた読書会(本紹介)の時に喋ったことをあとでまとめたんだと思う。
 加藤さんの思索は、この後も弛まず進む。
 そのことについても、メモを作りたいと思う。
 残念ながら、加藤さんは2019年5月、病没された。(と)

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 著者は文芸評論と共に、ある種、戦後批評(?)のようなものに長くかかわってきた。1990年代には「敗戦後論」で賛否両論を呼ぶ。1991年(ソ連崩壊)、2001年(同時多発テロ)、2011年(東日本大震災)と前世紀末から今世紀初頭に起きた大きな出来事を経て、いま、「戦後」の持つ意味と、この社会の有り様が、大きく変化するのを感じて、その内容を素描する二つの講演として昨年話した。

 それが本になっています。


 著者は、1985年、「『戦後』には一度死んで欲しい、そうでなければ、受け取れない」と新聞紙上の座談会で発言し、物議を醸します。戦後40年の時点で、「戦後」思想の継承と言う問題を、伝える側の問題から、受け取る側のイニシアチブの問題として再定義することの必要性にいち早く言及したのでした。それからさらに30年近くたち、「戦争と戦後」という枠組み自体が立脚点を失う、というところまで来ている。「戦後」自体が体験されるものではなく、学ぶものになっている。加藤さん自身も、「受け取る」側から、戦後を「伝える」側になっていた。するとその先どうなるのか。

時代は「戦後」から遠く離れて、戦後を超える思想を必要とする時点まで来てしまった。今から振り返ると、1991年以降、世界は新しい時代に入ったのだ。


 そして、2011年の原発事故を未曾有の産業災害としてとらえた時、加藤さんは自分が原発の問題をしっかりと考えては来なかったことに思い至ります。その結果、今まで考えてこなかった問題、に立ち止まらざるを得ないことに気がつきます。いままで、自分は戦争の死者との関係、というような過去とのしっかりとした関係、というところから考えてきた。実は、今回の原発事故は、過去との関係ではなく、未来の子供たちに、弁済しようもないほどの重荷を持たせてしまう、というような形で、未来への責任の問題として現れてきた。

 それは、単に当事者としての東電や国の責任を追及する(当然それは必要なことですが)だけで済むものではない、というところにその新しい性格が顔を出している。実は、どれほどの被害なのか、だれもはっきりとは分からない。ただ、目の前に巨大な、大きすぎて視野に入らない程の穴ぼこが空いている。誰もそれを直視できないほどの穴ぼこが。


 問題は、それが20年間で200兆円などと一部で言われるような、途方もないもので、通常の社会保障のシステムから逸脱するような性格を現していることにある。端的には、保険会社が、福島原発の掛け金を上げる(通常はそういう話でなければならない)、と言う代わりに、請け負うことは出来ない、と言ったことに現れている。自然や人的社会の無限性を前提として発達してきた産業社会のシステムが、内在的な限界に突き当たり始めていることの兆しがはっきりとしてきた、そういう問題なのではないか。世界の無限性から世界の有限性へ。一端何かあれば、誰も責任を取れない、そういうリスクを持つ社会の到来。


 その指摘は、1960年代頃よりあったのだが、それは言わば社会の外側からいわれるような形でしか、届かなかったものが、今回はまさに産業の構造の中から有限性の問題に突き当たったのだ。


 すると、問題はこうなる。この世界の有限性に正面から向き合い、それでも未来に希望を持つことができるような思想を如何に立ち上げることができるのか。いま、そのゼロ地点に立っている、そこから考え始めるほかないのではないか。


 かなり大ざっぱに翻案すれば、加藤さんの言っていることは以上のようなことだと思われます。

03/07/2021

 中原ふれあい防災公園の外れにあるサスティナ実験広場に、この5月公園管理棟が建てられた。
 建てられた経緯には、なかなか複雑なものがある。それを今語ることは控えておきたいが、その過程に深くかかわったのが、この「サスティナインフォメーション」の発行団体である特定非営利活動法人の牧場跡地の緑と環境を考える会です。

 その会の代表をしている永田さんからお声掛けを頂き、昨秋から会の会議などに折々参加させて頂き、公園管理棟が建てられる過程も遠くから見守ってきた。(実は、しっかりとした作りだけれど、基本はユニットを組み合わせるプレハブ工法だからつくり始めると早い)
 準備段階から4月のプレオープン。さらに5月のオープンにかけて、市役所との折衝や会内部の意見の集約等に大変な努力を積み重ねてこられてきたことはそれなりに近くから拝見してきた。

 もともと、会の名称にあるように緑や環境を考える団体が、曲がりなりにも地域に開かれたホールの運営を市から委託されて行う、というのは何もかも初めてずくしの経験が続くということであり、試行錯誤や団体内の軋みも覚悟しなくては出来ないことだっただろうと推測できる。というか、実際にそうだし、今もその中で苦労されている途中なのだ。
 そんな中で、ぼくも会の一員になり、ぼくの出来ることをすることになった。正直に言えば、また手に余ることに手を出してしまったという負担感はあるものの、そうも言っていられないという気持ちが勝った。

 オープンのポスターをつくったり、Wi-Fiを設定したり、前任者から引き継いでニュースレターの編集をしたり、……しばらくは落ち着かない。会の皆さんの努力が実って、地域の方に親しまれるホールになると良いのだけれど。

29/04/2021

‍ 先週、キネマ旬報シアターの大林宣彦回顧上映で『この空の花 長岡花火物語』を観た。二度目だった。そして、二度目にしてようやく、この作品の良さを知った。初めて観た時には、ぼくはわかっていなかった。ちょうど出版されたばかりの『大林宣彦メモリーズ』をその場で買った。


‍ 振り返ってみると、小説の世界で、庄司薫がいて、村上春樹がいたように、映画の世界には大林宣彦がいて、宮崎駿がいた。なんだ、当たり前のラインナップじゃないか、と言われそうだが、その当時のぼくにとっては、それぞれがかけがえのない発見であり、出会いであったし、その出会いがあってこそ、その後もずっと親しむことになった大切な作家たちなのだ。(同じように、学問の世界で大切な人たちとして、河合隼雄がいて、加藤典洋がいた。お二人とも既に向こう側に逝かれてしまったが。)


 更に思い返せば、庄司薫さんには、1977年に『ぼくの大好きな青髭』刊行時に、紀伊国屋書店のサイン会に並んでサインをもらった際にちょっと話をして握手をしてもらった。二度ほど学園祭に潜り込んで講演を聞いたこともある。村上春樹さんは、2019年12月に紀伊國屋サザンシアターの朗読会のチケットに当選し(遠くから)姿を拝見した。河合隼雄さんは、やはり一度講演会に行き、講演を聞いた。加藤さんは、新刊の出版に際して行われたジュンク堂のイベントに何度か出て、質問したり、サインをもらったりしたし、Web上で募集があったなんでも相談に質問をおくったら4回全て採用されて本に収録されている。宮崎駿さんには直接お会いする、というか、遠くから眺めたことも残念ながらない。そして、大林宣彦さんには、ぼくが書いた「尾道ラビリンス」という小説を読んで欲しくて、1995年に同人誌に載せてもらった時点で、送ったら読んでくださってハガキでお返事を下さった。(それを今回、追悼の意味をも込めて、ご覧いただければと思う。)
 最初に頂いた葉書の時はちょうど、当時の新作の「あした」を撮影中だった。「尾道ラビリンス、楽しく読ませていただきました。」と書いてあって、それだけで、ほんとかなぁ、と半信半疑な気持ちもありつつ嬉しかった。「尾道ラビリンス」は、『海燕』(福武書店刊行・既に廃刊)という文芸誌の同人誌評に取り上げられて随分と褒めてもらったことがあったが、当時のぼくは嬉しくもあったが、だからと言って何かアクションを起こすでもなかった。ただ、尾道ラビリンスは、大林映画にインスパイアされた、大林映画へのオマージュのような小説だったから、ぜひ監督には読んで欲しかったのだ。

 二枚目と三枚目の葉書を頂いたのは、2005年に東邦大学を辞めて、実家のある柏に戻ったのだけれど、それに合わせて、小説集『土星の環』と、エッセイ集『雑想ブック』を自主出版したことがきっかけになっている。土星の環には、改稿した「尾道ラビリンス」を収録し、雑想ブックには「時をかける少女」論や、「天国にいちばん近い島」論などを載せた。そして、それを出来た順に監督に献呈した。有り難いことに、その度に葉書を頂いた。それが、以下に載せたものなのだった。

 その監督も昨年向こう側に逝ってしまわれた。誠に寂しい。
 心は、さびしんぼう、である。
 監督の映画は、その最初の出会いはご多分に漏れず「時をかける少女」だった。(実際には、その前に「ねらわれた学園」とか観ていた筈だが、それは“出会い”にはならなかった。)
 当時の角川映画は、大作映画のほかに時々、アイドル映画等の新作を二本立てで公開したりもしていたのだが、この時もそうで、薬師丸ひろ子の確か「探偵物語」の併映作品として、営業的にはいわばレコードのBサイド扱いで公開されたのが「時をかける少女」だ。ぼくなども、薬師丸ひろ子の映画を観にその二本立ての映画に行ったのだが、出てきた時には併映作品の主演の女の子(確か、原田知世、とか言った)のファンになって出てきたのだった。
 もちろん、その主演の可憐な少女に恋しただけではなく、何よりもその作品の監督の手腕に惚れていたのだった。
 それから、遡って「転校生」を観たり、「さびしんぼう」や、「野ゆき山ゆき海べゆき」「彼のオートバイ、彼女の島」「異人たちとの夏」「ふたり」‥‥様々な作品を折にふれ観てきた。
 その大林監督作品の多くが、いまDVDやBlu-rayで観ることができない現状がある。
 日本映画のDVDは外国映画に比べて不当なほど高く、ぼくも買い揃えないままになった作品が多い。色々な事情があるのだろうが、もっと安価に提供し、まずは作品を観てもらうことが次の映画ファンを、映画作家を育てることに繋がるはずなのだが。


‍ 一度、全く幸運なことに、確か2000年前後のことだったと思うが、小さな映画ファンの集まりに参加して、大林監督の話を聞く機会があった。本当に20名くらいの集まりだったか。その時に、よほど、「尾道ラビリンス」を書いたトコロと申します、と言おうかと思ったが、言えなかった。
 なんだか、恥ずかしかったのだ、きっと。それとも、なんというのか、自分を売り込むようなことになるのが、嫌だったのか。ということは、十分に売り込む下心があったからなのだろうが。
 今では、ちょっと後悔している。
 あの時に、やっぱりちゃんと挨拶だけでもしておきたかったな。

‍ 売り込むとか、売り込まないとか、そんな小さなことではなく、自分が好きになった人に、会う。声を聞き、姿を見て、できれば話をする。それはとっても大事なことだと思うからだ。
 講演会の中身は既にさっぱり覚えていないのだが、河合隼雄さんが壇上を降りて、ゆっくり歩いて退席されるときに割に近くを通られた。そのがっしりとした体、伏せ目がちの顔。今でも印象に残っている。ぼくにとっては、あれが河合隼雄なのだ。

 たくさん本を読んだり、大林監督ならたくさん映画も観て、そうしたら監督自身にも会ってみたくなる。というか、とにかく見てみたくなる。遠くからでもいい。ああ、あの人か、と。

‍ そして、作品と作者の像を重ね合わせている。そのズレや、ズレのなさ、をも含めて。

‍ やがて、ある種の納得がやってくる。ぼくらは何かを受け取る。

‍ 大林監督、大変お世話になりました。いっぱい良きものを頂きました。
 どうも有難うございました。


【後記】
 実は、2000年頃にあったと書いた、大林監督を囲む映画ファンの集まり、の写真があった。撮ったという記憶があったので、探したら見つかった。経緯は、確か、ニフティサーブかなにかのパソコン通信の会議室のようなところで、大林作品のファンの方から情報を頂いたのだったと思う。
 だから、まったくの偶然。写真に写っている方々についてもまったくその時に初めて会った方々ばかりで、今となっては名前もなにもわからない。ここに記して、お誘いいただいたことにお礼を述べる。また、写真の掲載についても、ご容赦願う。

 この春、キネマ旬報社から出版された「大林宣彦メモリーズ」(5,600円+税)

584ページのヴォリュームの大型本。

 キネマ旬報に載った対談や記事に加え、大林映画に関わったスタッフ、キャストへの最新のインタビュー、アンケートなどを満載。

大林宣彦監督からの葉書。表面。『この葉書を書き終えた後で、「尾道ラビリンス」を読み返して居りました!』の言葉が嬉しい。

まったく幸運なことに、たまたま大林監督を囲む映画ファンの集いに参加することができた。
その時に聞いた、監督の映画制作に対する姿勢は誠に印象的だった。


ぼくはこのとき、40代の半ば、くらい。監督の髪も黒かった。