エッセイ

最近書いたもの、昔書いたもの、取り混ぜて。

07/09/2021

 文章落ち穂拾いシリーズ(?)。
 いつ書いた文章なのか、ちょっと特定できない。
 朝、数名で1週間に一度(?)程度やっていた読書会(本紹介)の時に喋ったことをあとでまとめたんだと思う。
 加藤さんの思索は、この後も弛まず進む。
 そのことについても、メモを作りたいと思う。
 残念ながら、加藤さんは2019年5月、病没された。(と)

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 著者は文芸評論と共に、ある種、戦後批評(?)のようなものに長くかかわってきた。1990年代には「敗戦後論」で賛否両論を呼ぶ。1991年(ソ連崩壊)、2001年(同時多発テロ)、2011年(東日本大震災)と前世紀末から今世紀初頭に起きた大きな出来事を経て、いま、「戦後」の持つ意味と、この社会の有り様が、大きく変化するのを感じて、その内容を素描する二つの講演として昨年話した。

 それが本になっています。


 著者は、1985年、「『戦後』には一度死んで欲しい、そうでなければ、受け取れない」と新聞紙上の座談会で発言し、物議を醸します。戦後40年の時点で、「戦後」思想の継承と言う問題を、伝える側の問題から、受け取る側のイニシアチブの問題として再定義することの必要性にいち早く言及したのでした。それからさらに30年近くたち、「戦争と戦後」という枠組み自体が立脚点を失う、というところまで来ている。「戦後」自体が体験されるものではなく、学ぶものになっている。加藤さん自身も、「受け取る」側から、戦後を「伝える」側になっていた。するとその先どうなるのか。

時代は「戦後」から遠く離れて、戦後を超える思想を必要とする時点まで来てしまった。今から振り返ると、1991年以降、世界は新しい時代に入ったのだ。


 そして、2011年の原発事故を未曾有の産業災害としてとらえた時、加藤さんは自分が原発の問題をしっかりと考えては来なかったことに思い至ります。その結果、今まで考えてこなかった問題、に立ち止まらざるを得ないことに気がつきます。いままで、自分は戦争の死者との関係、というような過去とのしっかりとした関係、というところから考えてきた。実は、今回の原発事故は、過去との関係ではなく、未来の子供たちに、弁済しようもないほどの重荷を持たせてしまう、というような形で、未来への責任の問題として現れてきた。

 それは、単に当事者としての東電や国の責任を追及する(当然それは必要なことですが)だけで済むものではない、というところにその新しい性格が顔を出している。実は、どれほどの被害なのか、だれもはっきりとは分からない。ただ、目の前に巨大な、大きすぎて視野に入らない程の穴ぼこが空いている。誰もそれを直視できないほどの穴ぼこが。


 問題は、それが20年間で200兆円などと一部で言われるような、途方もないもので、通常の社会保障のシステムから逸脱するような性格を現していることにある。端的には、保険会社が、福島原発の掛け金を上げる(通常はそういう話でなければならない)、と言う代わりに、請け負うことは出来ない、と言ったことに現れている。自然や人的社会の無限性を前提として発達してきた産業社会のシステムが、内在的な限界に突き当たり始めていることの兆しがはっきりとしてきた、そういう問題なのではないか。世界の無限性から世界の有限性へ。一端何かあれば、誰も責任を取れない、そういうリスクを持つ社会の到来。


 その指摘は、1960年代頃よりあったのだが、それは言わば社会の外側からいわれるような形でしか、届かなかったものが、今回はまさに産業の構造の中から有限性の問題に突き当たったのだ。


 すると、問題はこうなる。この世界の有限性に正面から向き合い、それでも未来に希望を持つことができるような思想を如何に立ち上げることができるのか。いま、そのゼロ地点に立っている、そこから考え始めるほかないのではないか。


 かなり大ざっぱに翻案すれば、加藤さんの言っていることは以上のようなことだと思われます。

03/07/2021

 中原ふれあい防災公園の外れにあるサスティナ実験広場に、この5月公園管理棟が建てられた。
 建てられた経緯には、なかなか複雑なものがある。それを今語ることは控えておきたいが、その過程に深くかかわったのが、この「サスティナインフォメーション」の発行団体である特定非営利活動法人の牧場跡地の緑と環境を考える会です。

 その会の代表をしている永田さんからお声掛けを頂き、昨秋から会の会議などに折々参加させて頂き、公園管理棟が建てられる過程も遠くから見守ってきた。(実は、しっかりとした作りだけれど、基本はユニットを組み合わせるプレハブ工法だからつくり始めると早い)
 準備段階から4月のプレオープン。さらに5月のオープンにかけて、市役所との折衝や会内部の意見の集約等に大変な努力を積み重ねてこられてきたことはそれなりに近くから拝見してきた。

 もともと、会の名称にあるように緑や環境を考える団体が、曲がりなりにも地域に開かれたホールの運営を市から委託されて行う、というのは何もかも初めてずくしの経験が続くということであり、試行錯誤や団体内の軋みも覚悟しなくては出来ないことだっただろうと推測できる。というか、実際にそうだし、今もその中で苦労されている途中なのだ。
 そんな中で、ぼくも会の一員になり、ぼくの出来ることをすることになった。正直に言えば、また手に余ることに手を出してしまったという負担感はあるものの、そうも言っていられないという気持ちが勝った。

 オープンのポスターをつくったり、Wi-Fiを設定したり、前任者から引き継いでニュースレターの編集をしたり、……しばらくは落ち着かない。会の皆さんの努力が実って、地域の方に親しまれるホールになると良いのだけれど。

29/04/2021

‍ 先週、キネマ旬報シアターの大林宣彦回顧上映で『この空の花 長岡花火物語』を観た。二度目だった。そして、二度目にしてようやく、この作品の良さを知った。初めて観た時には、ぼくはわかっていなかった。ちょうど出版されたばかりの『大林宣彦メモリーズ』をその場で買った。


‍ 振り返ってみると、小説の世界で、庄司薫がいて、村上春樹がいたように、映画の世界には大林宣彦がいて、宮崎駿がいた。なんだ、当たり前のラインナップじゃないか、と言われそうだが、その当時のぼくにとっては、それぞれがかけがえのない発見であり、出会いであったし、その出会いがあってこそ、その後もずっと親しむことになった大切な作家たちなのだ。(同じように、学問の世界で大切な人たちとして、河合隼雄がいて、加藤典洋がいた。お二人とも既に向こう側に逝かれてしまったが。)


 更に思い返せば、庄司薫さんには、1977年に『ぼくの大好きな青髭』刊行時に、紀伊国屋書店のサイン会に並んでサインをもらった際にちょっと話をして握手をしてもらった。二度ほど学園祭に潜り込んで講演を聞いたこともある。村上春樹さんは、2019年12月に紀伊國屋サザンシアターの朗読会のチケットに当選し(遠くから)姿を拝見した。河合隼雄さんは、やはり一度講演会に行き、講演を聞いた。加藤さんは、新刊の出版に際して行われたジュンク堂のイベントに何度か出て、質問したり、サインをもらったりしたし、Web上で募集があったなんでも相談に質問をおくったら4回全て採用されて本に収録されている。宮崎駿さんには直接お会いする、というか、遠くから眺めたことも残念ながらない。そして、大林宣彦さんには、ぼくが書いた「尾道ラビリンス」という小説を読んで欲しくて、1995年に同人誌に載せてもらった時点で、送ったら読んでくださってハガキでお返事を下さった。(それを今回、追悼の意味をも込めて、ご覧いただければと思う。)
 最初に頂いた葉書の時はちょうど、当時の新作の「あした」を撮影中だった。「尾道ラビリンス、楽しく読ませていただきました。」と書いてあって、それだけで、ほんとかなぁ、と半信半疑な気持ちもありつつ嬉しかった。「尾道ラビリンス」は、『海燕』(福武書店刊行・既に廃刊)という文芸誌の同人誌評に取り上げられて随分と褒めてもらったことがあったが、当時のぼくは嬉しくもあったが、だからと言って何かアクションを起こすでもなかった。ただ、尾道ラビリンスは、大林映画にインスパイアされた、大林映画へのオマージュのような小説だったから、ぜひ監督には読んで欲しかったのだ。

 二枚目と三枚目の葉書を頂いたのは、2005年に東邦大学を辞めて、実家のある柏に戻ったのだけれど、それに合わせて、小説集『土星の環』と、エッセイ集『雑想ブック』を自主出版したことがきっかけになっている。土星の環には、改稿した「尾道ラビリンス」を収録し、雑想ブックには「時をかける少女」論や、「天国にいちばん近い島」論などを載せた。そして、それを出来た順に監督に献呈した。有り難いことに、その度に葉書を頂いた。それが、以下に載せたものなのだった。

 その監督も昨年向こう側に逝ってしまわれた。誠に寂しい。
 心は、さびしんぼう、である。
 監督の映画は、その最初の出会いはご多分に漏れず「時をかける少女」だった。(実際には、その前に「ねらわれた学園」とか観ていた筈だが、それは“出会い”にはならなかった。)
 当時の角川映画は、大作映画のほかに時々、アイドル映画等の新作を二本立てで公開したりもしていたのだが、この時もそうで、薬師丸ひろ子の確か「探偵物語」の併映作品として、営業的にはいわばレコードのBサイド扱いで公開されたのが「時をかける少女」だ。ぼくなども、薬師丸ひろ子の映画を観にその二本立ての映画に行ったのだが、出てきた時には併映作品の主演の女の子(確か、原田知世、とか言った)のファンになって出てきたのだった。
 もちろん、その主演の可憐な少女に恋しただけではなく、何よりもその作品の監督の手腕に惚れていたのだった。
 それから、遡って「転校生」を観たり、「さびしんぼう」や、「野ゆき山ゆき海べゆき」「彼のオートバイ、彼女の島」「異人たちとの夏」「ふたり」‥‥様々な作品を折にふれ観てきた。
 その大林監督作品の多くが、いまDVDやBlu-rayで観ることができない現状がある。
 日本映画のDVDは外国映画に比べて不当なほど高く、ぼくも買い揃えないままになった作品が多い。色々な事情があるのだろうが、もっと安価に提供し、まずは作品を観てもらうことが次の映画ファンを、映画作家を育てることに繋がるはずなのだが。


‍ 一度、全く幸運なことに、確か2000年前後のことだったと思うが、小さな映画ファンの集まりに参加して、大林監督の話を聞く機会があった。本当に20名くらいの集まりだったか。その時に、よほど、「尾道ラビリンス」を書いたトコロと申します、と言おうかと思ったが、言えなかった。
 なんだか、恥ずかしかったのだ、きっと。それとも、なんというのか、自分を売り込むようなことになるのが、嫌だったのか。ということは、十分に売り込む下心があったからなのだろうが。
 今では、ちょっと後悔している。
 あの時に、やっぱりちゃんと挨拶だけでもしておきたかったな。

‍ 売り込むとか、売り込まないとか、そんな小さなことではなく、自分が好きになった人に、会う。声を聞き、姿を見て、できれば話をする。それはとっても大事なことだと思うからだ。
 講演会の中身は既にさっぱり覚えていないのだが、河合隼雄さんが壇上を降りて、ゆっくり歩いて退席されるときに割に近くを通られた。そのがっしりとした体、伏せ目がちの顔。今でも印象に残っている。ぼくにとっては、あれが河合隼雄なのだ。

 たくさん本を読んだり、大林監督ならたくさん映画も観て、そうしたら監督自身にも会ってみたくなる。というか、とにかく見てみたくなる。遠くからでもいい。ああ、あの人か、と。

‍ そして、作品と作者の像を重ね合わせている。そのズレや、ズレのなさ、をも含めて。

‍ やがて、ある種の納得がやってくる。ぼくらは何かを受け取る。

‍ 大林監督、大変お世話になりました。いっぱい良きものを頂きました。
 どうも有難うございました。


【後記】
 実は、2000年頃にあったと書いた、大林監督を囲む映画ファンの集まり、の写真があった。撮ったという記憶があったので、探したら見つかった。経緯は、確か、ニフティサーブかなにかのパソコン通信の会議室のようなところで、大林作品のファンの方から情報を頂いたのだったと思う。
 だから、まったくの偶然。写真に写っている方々についてもまったくその時に初めて会った方々ばかりで、今となっては名前もなにもわからない。ここに記して、お誘いいただいたことにお礼を述べる。また、写真の掲載についても、ご容赦願う。

 この春、キネマ旬報社から出版された「大林宣彦メモリーズ」(5,600円+税)

584ページのヴォリュームの大型本。

 キネマ旬報に載った対談や記事に加え、大林映画に関わったスタッフ、キャストへの最新のインタビュー、アンケートなどを満載。

大林宣彦監督からの葉書。表面。『この葉書を書き終えた後で、「尾道ラビリンス」を読み返して居りました!』の言葉が嬉しい。

まったく幸運なことに、たまたま大林監督を囲む映画ファンの集いに参加することができた。
その時に聞いた、監督の映画制作に対する姿勢は誠に印象的だった。


ぼくはこのとき、40代の半ば、くらい。監督の髪も黒かった。

26/03/2021

 実はぼくは、「やさしさと親切の精神史」というタイトルになるはずの論考をずっと前に構想したことがある、というかある程度書いたし、一度は小さな集まりで発表もして、結構好評を得たこともある。だが、その後情けないことに進捗せず、現在に至るまで放置している。
 この図は、この論考の中でも触れるはずの栗原彬さんの著作からインスパイアされてぼくが図解化したものだ。庄司薫の「やさしさ」に対して、村上春樹は「親切」を対置した、というのがぼくの理解であり、その村上春樹の親切を位置づける、その試みのひとつ、が上図になる。
 いつ、この論考を仕上げることが出来るのか。
 そんな日が、来るのだろうか?
 なんだか、いささかあやしくなってきた、今日このごろではある。