Novel

昔書いたもの。新作も、あるかも。

28/02/2021

 最後に、二〇〇一年に英国に行ったときの話をちょっとしておきたい。

 ロンドンに一週間ほど滞在したのだけれど、例によって博物館や本屋やシアターをめぐって疲れ果てたある日(まぁ、つまり、日本と同じパターンなんだ)、ふと立ち寄った古ぼけたパブで隣り合ったのがポールだった。目尻にいっぱいシワが寄った六十がらみの良く笑う社交的な男ーーまだ、十分若々しいーーそれがポールの第一印象だ。数名の仲間とくつろいでビールを飲んでいた。

 理由らしきものは何もなかったと思うのだけれど、ポールは何故か、僕が席に落ち着くなりしきりと話しかけてきた。突然、肩に暖かい手が置かれたのを感じて振り返ると、彼がいたのだ。たぶん、既に充分酔っぱらっていたのだろう。

 話し始めてみると、日本や日本人に対して、言いたいことがたくさん溜まっているようだった。あるいは、僕が来る前から、仲間内で日本や日本人のことがたまたま話題になっていたのかも知れない。そうだったのなら、飛んで火にいる夏の虫、と言ったところだ(実際は春だったけれど)。

 僕は、とにかくびっくりしてはいたが、何故か覚悟して聞く気になっていた。彼は、地球の裏側にいる東洋人に、何故こんなに親近感がわくのか不思議なんだ、と言ってくれたけれど、これはほとんど社交辞令だったのじゃないかと思う。そして、日本人のバイヤーに売った浮世絵についての(ちょっと品のないジョークを交えた)話が急に、何か気が変わったのか、こんな話につながっていったのだ。

 以下は、彼の話のままだ。断っておくけれど、彼は実に真摯に話してくれた。本気だったのだと思う。

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 例えば、こんなことがあった。ぼくがある時、弁護士に電話をしたのだが、混線したあげく、突然弁護士の声が途絶えて、どこかで聴いたことのある声が耳に飛び込んできた。

「ヘイ、ポール。元気かい? 新曲なかなかイカスぜ」

「え、誰だって? ぼくの弁護士はどこへいったの?」

「わからんのか、ポール。この美声をそんなに簡単に忘れちまったっていうのか?」

「え! ……まさか! ジョン……?!」

「ことわっておくけれど、F・ケネディの方じゃないんだぜ。撃たれたってことと中身の高級さは一緒だけどな!」

「ほんとにジョンだなんて、まさか! きっと誰かのいたずらだ。また、ぼくを担ごうって魂胆なんだ! 決まってる!」

「やれやれ。どうすれば信用するんだ? セイウチの歌を書いたときに、十行目の歌詞は本当はぼくじゃなくて君が書いたんだ、とか、ハンブルグで奪い合った美人ちゃんのセカンドネームはクリスチーネだった、とか、その手のくだらんことを五百くらい並べれば信用するってのか?!」

「Oh! ジョン! 信じられないよ。分かってても信じられないんだ、また話せるなんて、何年ぶりなんだ。本当にジョンなんだね?」

「Yes! 天国のジョン・レノンだよ! 天国はいいところだ。きみに想像できるかな?」

「イマジンをつくったのはきみの方だ。教えてくれよ、参考のためにね」

「ここにはなにもかもがある。そしてなにひとつない。なにもかもが見えるが、なにひとつ見えない。わかるか?」

「いや、全然」

「だろうな」

「おいジョン」

「なんだ?」

「ヨーコとショーンは元気だよ」

「うん、知ってる」

「リンゴもね。ただ、ジョージが……」

「Let it be、ポール。Let it be」

「リンダもぼくを残して死んじゃってさ……。でも、ぼくはまだ現役を続けてる」

「リンダ? うん。最近じゃよく、アフタヌーン・ティーに呼ばれるよ」

「なんだって!? きみがリンダと会っているんだって?」

「おっと、こりゃ刺激が強すぎるか。いまはまだ知らなくていいんだ」

「ジョン?!」

「怒るなって! 生きている奴は、まず今をきちんと楽しむんだ!」

「きみが言っているのは、つまり……」

「リンダはぼくと、きみの話をしたいんだよ」

「ジョン……」

「ヘイ、ポール。“そんなにくよくよするなよ”と歌ったのはきみだろ?」

「ジョン(笑)……。おれはきみのこと、ほんとに尊敬してたんだぜ。知ってたか?」

「知ってたとも。おれもそうだったからな」

「ほんとうかい? ジョン?」

「もちろん。天国では、おれみたいなウソツキでさえ嘘はつきたくなくなるんだ」

「ありがとう、ジョン」

27/02/2021

 1 

 その日の朝、 僕は何も考えずに、 ふらりとアパートを出て、 なんとなく大学に向かった。 サークル室のある七号館は象の死体みたいに静かだった。 僕はB1に通じるスロープを降りて、象の横腹から下へもぐり込んだ。 柔道場や剣道場などの横を通り抜け、 階段をあがり、 左に折れるとすぐに部室だ。 誰もいるはずのない部室のドアを開けて中に入った。 

 確かに誰もいなかった。 

 部屋はいつもより狭く感じられた。 それとも広いのだろうか。 僕はなんとなく混乱していた。 たぶん、 四畳半くらいの広さだと思う。 この部屋に部会の時は十名以上が詰め込まれたものだ。 壁に 「造反有理」 と書いてあるのが読める。 すぐ隣にも、 なんとかを解体せよ! とあるが、 かすれていて読めない。 そういえば、 初めてこの部屋に来た時にもこの文字を読んだ。 僕は少しびっくりしてこれが大学紛争の名残りかと思ったのだ。 そして、 毎日のようにこの部屋にいたのにそれっきり一度も意識したことなどなかった。 今になってその文字が目に入ってくるというのは……またあの時と同じように、 もう僕はこの部屋に属していないということをどこかで意識している、 ということなのだろう。 

 卒業式は昨日終わっていた。 僕はもう大学生ではない。 学生時代という夏休みが終わってしまった。 あんなに長かった夏休みが。 サーブが最後まで決まらずに、 調子が出ないまま負けたテニスの試合のようだ。 実感がわかない。 ともかく、 僕の学生時代はすでに失われていた。 あと一週間で、 「社会に巣立つ」 ことになっている。 なんにも問題はないはずだ。 僕は月並みなサラリーマンになるだろう。 簡単なことだ。 

 それを思うと吐き気がする。 

 大学を卒業することには何の感慨も持てなかった。 大学はちょうど、 大きな体育館に似ている。 天井はやたらと高い。 たくさんの人が駆けたり跳んだりしている。 でも上を見るとからっぽだった。 そこには何もないのだ。 風雨がしのげるだけだ。 それ以上の意味は何もない。 

 誰もが内心そんな風に感じているんじゃないだろうか。 それとも僕だけだろうか。 だがもし、 誰かが僕にその質問をしたとしても、 僕はきっと、 しらっとして 「いい子の模範回答」 をするだろう。 誰よりももっともらしく。 にこにこ笑いながら。 

 くそ食らえだ。 

 僕はいつまでも大学生でいたかったのだ。 無意味で馬鹿馬鹿しい大学生で。 

 僕はソファに腰を下ろした。 苛々した気分のまま、 ポケットの煙草を捜した。 なにかを考えなくてはいけない、 と考えていた。 しかし、 何を考えるつもりなのか自分でも分からなかった。 濃い霧が頭の中に巣くっていた。 

 煙草に火をつけ、 ゆっくりと吸い込む。 一瞬霧が晴れそうな気がした。 煙が胸の中を満たす。 代わりに頭の中がからっぽになる。 

 この瞬間が永遠に続けばいいのに。 

 もちろん、 煙は吐き出さねばならず、 それと共に以前にも増して重く暗い霧が頭の中に戻ってくる。 

 出口なんか、 どこにもないのだ。 

 明日なんか、 やってこないのだ。 

 僕は一本の煙草を時間をかけてゆっくりと吸った。 僕は霧の中をさまよい続けた。 

 だが、 僕は間違っていた。 もちろん明日はやってくる。 

 ずうずうしくも、 ぬけぬけと。 

 僕にはこれが何なのかが分かっている。 諦めと自己憐憫だ。 

 ひどいなんてものじゃない。 

 がたっ、 と何かが倒れる音がした、 と思うと白い塊が僕の左足元近くからころげるように飛び出した。 その白い塊はドアに体当りしてさらに爪でがりがりと引っかく。 僕は思わず立ち上がって二、 三歩後ずさった。 

 猫は振り返って僕を見上げた。 その顔には乾きかけた血がべったりとこびりついている。 猫は背中の毛を総てさか立てて僕を見返し、 びぎゃーおぅ、 と鳴く。 一瞬にして僕の横をすり抜けると、 部屋の奥のソファーの下に逃げ込む。 まだ若い猫のように見えた。 

 僕は部屋を飛び出していた。 ドアをしっかり閉める。 我ながら猫に対抗できそうなくらいに素早い撤退ぶりだった。 

 でも、 しかし、 なんで猫なんている。 

 しかも、 血まみれの、 猫だ。 

 しるものか。 

 どこからか迷い込んだのか、 誰かが持ち込んだのか、 だ。 

 僕はドアの前で、 そのまま三十秒くらい考え込んだ。 僕は極めて決断力に欠ける男なのだ。 結論から言えば、 血だらけの猫にかかわり合いたいと思うほど純情でセンチメンタルであるには、 僕は十歳ほど歳を取り過ぎていた。 どこからか迷い込んだのなら自分で出て行くだろうし、 誰かが連れ込んだのならそいつが責任を取ればいい。 

 肩をすくめて立ち去ろうとして、 思いとどまったのは単に、 煙草が手にないことに気付いたからだ。 

 おいおい。 

 火がついたままだぜ。 

 おまけに部屋の中はごみだらけ。 

 ……まいったね。 

 僕は向き直ってゆっくりとドアを開け、 部屋に入り、 そしてまた注意深くドアを閉めた。 テーブルの上には灰皿と紙コップと空のかんビールとマンガ雑誌と落書き帳がなべの中でかき回したみたいになって重なっている。 きたなく汚れた床には僕達が四年間かかって溜めたすべての可燃性のごみが堆積している。 火事なんか毎日起きたっておかしくはない。 

 床に落ちていた二本の煙草はいずれも一か月も前に踏み潰されたものだ。 僕は猫を刺激しないようにゆっくりとかがみこんで煙草を捜した。 確かにどこかで煙草が燃えている。 ふんふん、 と鼻を鳴らすと、 ふぅーっ、 と猫が怒って息を吐き出すのが聴こえる。 

 まずいね。 

 むろん、 ドアを開け放して、 猫をおっぱらってから捜した方が簡単だが、 とりあえずそうしない方がいいような気がしたのでドアを閉めた。 猫に大騒ぎされないためには慎重に動くしかない。 煙草はこのさして広くもない部屋のどこかで確実に燃え上がろうとしている。 

 どちらにしても、 煙が見えるはずだ。 

 うおあーおぅ! 猫がうなりごえをあげ始める。 至近距離、 しかも密室となると小猫でもかなりの迫力がある。 ますます、 まずい。 明らかに戦闘開始を宣告しているのだ。 

 もう一度机の上を捜そうとして、 煙を見つけた。 椅子の一つの座る部分から煙が上がっている。 ビニール・レザーがなかば溶け出している。 

 やれやれ。 

 とんだ置き土産をするところだった。 

 煙草をつまんで机の上の灰皿で押し消そうとして、 僕はもう一本の煙草に気が付いた。 

 明らかに吸ったばかりの新しい煙草だ。 

 全体の二分の一ほどを吸った後、 乱暴に消してある。 

 吸い口には、 うっすらと赤い口紅がついている。


  2

 キャット・フードを買うのは初めてだった。 

 猫など一度も飼ったことはない。 それでも猫好きになったのは、 祖母の家で猫を飼っていたからだろう。 小さい頃は、 学校の休み毎に遊びに行っていた。 自然その猫とも顔なじみになった。 

 猫はただ 「にゃんこ」 と呼ばれていた。 

 おとなしい性格の雌猫で、 ある雨の日の夕方、 軒下で雨宿りしているところを見つけられた。 叔母が煮干を与えたところ居着いてしまった。 

 天気のいい日は、 いつも屋根の上の決まった場所で昼寝をするにゃんこの姿を見ることが出来た。 僕は大抵、 そんなにゃんこを見つけると、 昼寝の邪魔ばかりしていた。 炬燵の中のにゃんこに手を出して引っかかれたこと。 いやがるのを無理に抱えて三面鏡の中に映る自分の姿にどう反応するかと実験して遊んだこと。 そんなことばかりを思い出す。 それでも僕らはだいたいにおいてうまくつき合っていた。 にゃんこがおなかをすかせているようなら、 こっそりと缶の中の煮干を与えたものだし、 彼女は彼女で一度雀を捕まえて、 僕の前に置いたことがあった。 後で知ったのだが、 これは子猫に餌を与えるのと同じ行為なのだそうだ。 

 僕はキャット・フードその他諸々のものの入った紙袋を抱えて、 七号館に戻ってきた。 

 先ほどと同じように七号館にもぐり込み、 部室の前まできた。 三十分ほど留守をしたが、 まだ猫はいるだろうか。 むろん、 いるはずなのだ。 ドアの前で一瞬ためらったのは、 正直なところ中に猫がいるかどうか、 を心配したからではない。 

 僕は頭を振って、 頭の天辺にへばり付いている愚かしい期待を振り落そうとした。 それは落ちる気配もなくしっかりとしがみついてる。 諦めてドアを開けようとした。 それから、 思い直して一応ノックしてみた。 返事はない。 ドアを開ける。 人の姿はもちろん、 猫の姿も見えない。 しかし、 猫はいた。 姿は見えなかったが、 彼の (あるいは彼女の) 恐ろしいほどの緊張だけは伝わってきた。 

 たいした猫だ。 僕なんかよりずっと存在感というやつがある。 

 僕は、 皿に盛ったキャット・フードとミルクを床にそっとおいて静かにドアを閉めた。 さてと、 もう一度お散歩だ。 僕はサークル室を後にした。 

 さらに三十分後に戻ると、 部屋に近付くにつれ猫が鳴いているのが聴えてきた。 僕の足音が近付くと、 その声が不意に途絶えた。 ドアを開ける。 お皿はどちらも綺麗にからっぽだ。 屈んで奥の椅子の下をのぞき込む。 いるいる。 前足を揃えてこちらを見ている。 

 おい、 もういいだろ? 出てこいよ。 

 にゃーおぅ。 

 おいおい、 まだ喰い足らないのか。 

 なうあー?

 喰いすぎには注意した方がいいぞ。 よしよし、 ちょっと待て。 

 ぐるにゃー。 

 猫が、 そろそろと椅子の陰から出て来る。 すぐに夢中で追加したキャット・フードにかぶりつく。 そっと手を延ばし、 背中を撫でるが、 いやがるでもない。 ふーん、 案外簡単に懐柔されたな。 やっぱりかなり若い猫だ。 目のまわりの怪我はいいのか? 痛くないのかよ……。 

 ところが、 その時、 痛いはずなどないということが、 僕にもやっと分かった。 

 なぜなら、 猫の目のまわりに付いているのは、 乾いた血などではなく、 真っ赤なルージュであったから。 


  3

 いつの間にか窓の外は雨模様だ。 音もなく、 雨は降り続けている。 守衛に見つかるとやっかいなので、 明かりをつけるわけにはいかない。 物音も最低限に押さえねばならなかった。 もっとも、 どちらもたいして苦痛ではなかった。 ちょうど窓の外に街灯があり、 その明りが部屋をぼんやりとではあれ照らしていた。 まったくの闇ということもなく、 長椅子の上で寝そべりながら煙草を吸っていても特に不自由はない。 

 八時過ぎに守衛が見回りにきた。 足音が近付いてくるのを耳にして初めて、 煙草の煙か匂いに気付くのではないか、 という可能性に思い至った。 猫が鳴き声を上げるのも困る。 しかし、 どうしようもない。 急いで煙草をもみ消した。 椅子の下にいるはずの猫を抱き上げようと手を伸ばした途端、 手の甲をいやというほど引っかかれた。 思わず声を上げそうになる。 引っ込めた腕の肘が、 壁に当たって鈍い音がした。 

 しまった。 

 足音が近付いてくる。 

 懐中電灯のものらしい明かりがドアの下から入ってきた。 足音がドアの前で止まる。 

 それから、 そのまま歩き始め、 明かりも遠ざかる。 さらに十秒たって、 僕はようやく息をついた。 

 やれやれ。 

 それっきり、 もう守衛はやって来なかった。 

 ああ、 いてえ。 

 手の甲をなめてみた。 血の味がする。 窓の外からの青白い明かりに手をかざしてみた。 細長い 「川」 の字がくっきりと浮かび上がった。 僕はため息をつく。 足元の毛布を胸元までたぐり寄せ、 長椅子の上で寝返りを打ち、 目を閉じた。 まだ、 眠くはなかったが、 暗闇の中ですることなど何もなかった。 

 真夜中に一度目が覚めた。 

 一瞬ここがどこなのかが分からなかった。 

 コンクリートの高い天井。 サークル室だ。 

 何故こんな場所で寝ているのか、 を思い出すのにさらにもう一瞬を要した。 

 寒かった。 

 毛布一枚ですむ季節は、 まだ遥か彼方のようだった。 風邪をひくぞ。 そう考えたとき、 おなかの辺りが暖かいのに気がついた。 

 猫がもぐり込んでいた。 

 猫も寒がりなのだ。 

 僕らはふたりしてここで震えているのだ。 僅かな可能性にすがって。 馬鹿ばかしい意地を張って。 僕には電話一本かけることも出来ない。 急に自分が何故ここにいるのか、 その理由が分からなくなった。 

 寒くて目が覚めた。 外は明るい。 外してあった腕時計を見るとまだ朝の六時十五分だ。 頭がぼんやりしている。 定期的に目が覚めてしまい、 あまり眠った気がしない。 少し頭痛がする。 しかしこれ以上眠れそうになかった。 上半身を起こそうとして、 猫がいないことに気が付く。 くるりと見回すと、 ドアの所に座ってこちらを見上げている。 

 外へ出たいのか。 

 さあて。 どうしたものか。 

 僕は少し考え込んだ。 猫を逃がしたくはない。 でも、 それは人間の勝手な都合であって、 彼 (彼女か?) の知ったことではない。 出て行きたがっているのだ。 行かせた方がいい。 勝手に飼い主の元に帰ればいい。 ま、 帰れるとすれば、 だが。 でも、 その前に顔のルージュは洗い落としてやりたかった。 誰がそれをしたにせよ、 猫にそんなことをする権利なんてない。 

 猫はもう僕を恐れてはいない様子だった。 

 僕は、 皿にキャットフードと牛乳を入れてやり、 早速食べ始めた猫を部屋に残して (ドアは閉めておいた)、 三階にある給湯室に行ってお湯を沸かした。 やかんのままお湯を部室まで運び、 まずは昨日買っておいたインスタントみそ汁に注ぎ、 ソファに寝そべりながらしゃけとたらこのおにぎりを食べた。 おなかがすいていたせいか、 とても美味しかった。 猫はすっかりキャットフードを食べ尽くし、 皿を嘗めながら時々ちろりと僕を見た。 ミルクもない。 僕はミルクを少し注ぎ足してやり、 少し惜しい気もしたけれど、 鯵の頭分くらいのご飯を分けてやることにした。 猫は皿に置いたご飯もすぐに食べてしまった。 ミルクの皿を嘗め尽くすと満足したらしく身づくろいを始めた。 でも、 まだ身づくろいには早過ぎる。 やかんのお湯を用意したバケツに注ぎ、 もう一つのバケツに汲んだ水を注いでぬるま湯にした。 

 さて、 いい子だからシャンプーしよーな。 

 猫はなんとなく危険を察知したらしく、 警戒心も露にして僕を見上げている。 それからが、 ちょっとした騒動だった。 猫は水をいやがったが、 首尾よく捕まえた猫を何とかバケツに漬けて、 小量のシャンプーで洗った。 猫はいやがってもがくし、 大声で鳴くのでエラク手間がかかった。 こっちまで随分返り水を浴びた。 それでも不満足ながらどうにか顔のルージュは落とすことが出来た。 毛布でごしごしと全身を拭いてやる。 それから猫を椅子の上に放り投げた。 猫が激しく身震いし、 体をなめ始める。 

 冗談じゃない。 ひどいものだ。 「忍耐力」 という科目のテストを受けてるみたいだ。 しかも、 テストの相棒には忍耐力のかけらもない。 猫が風呂嫌いってことは聞いていたけれど、 まるで僕まで一緒に入ったみたいだ。 ポロシャツの前とジーンズがびしょ濡れだ。 それどころか、 ポロシャツにしっかと爪を立てられて糸がほつれている。 椅子の一つに腰掛ける。 ポロシャツを脱ぐ。 

 僕はしきりに体をなめている猫をしばらくただ眺めながら煙草を吸った。 我々は段々落ち着いてきたようだった。 講和条約を締結してやってもいい。 

 やがてまた眠気が襲ってきた。 煙草を消し、 毛布を被って長椅子に横たわりもう一度ぐっすりと眠った。 

 夢を見た。 

 どこか見覚えがある街なのだがどこなのか分からない。 ここはどこだろう。 僕はひとりぼっちだ。 だれも僕のことなど思い出しもしない。 当然だ。 僕だってだれのことも心から心配したことなどないのだから。 でも、 いつだって何かを求めていた。 ただ、 何が価値あることで、 何が無意味なのかが分からなかったのだ。 誰が正しくて誰が間違っているのかさっぱり分からなかったのだ。 いつのまにか、 好きでもない連中とつき合い、 大切な人々を傷つけ遠ざけていた。 そんなこと、 間違ってもしたくはなかったのに。 

 僕はテレビを見ていた。 別に見たい番組があるわけでもなかったが。 何かのバラエティ番組らしく、 解散して引退したたはずの (それともまた復帰したんだったかな。 よくわからない。) キャンディーズのランちゃんが真面目くさってニュース記事を読んでいた。 オイルショックと宇宙からインベーダーがやってくると言う内容だった。 最後にランちゃんはニュース原稿から目を上げてまっすぐ僕を見ると言った。 

 「早く人間になりなさい」 

僕はもの凄くショックを受けた。 夢の中だったが怒りの余り目がくらみそうだった。 屈辱だ。 くそ。 なんだかどうしようもないほど腹がたってきた。 どうすれば人間になれるのか教えられるものなら教えてみやがれ、 と画面の中のランちゃんに向かって怒鳴った。 僕は何かテレビに投げつけるものはないかと辺りを見回した。 

 どこかで火事が起きたらしい。 遠くの空が夕焼けのように赤い。 足元を水が浸し始めた。 冷たく、 濁った水が。 やって来るのだ。 間もなく。 洪水。 流れだ。 流されていく。 目がまわる。 速過ぎる。 何も聞こえない。 流れて行く。 何もかもが。 止められない。 止めようもない……。 すべてが流れ去ってしまう。 男が流されて行く。 子供が呑込まれてしまう。 僕も流されている。 まわり中がすごい勢いで流れて行く。 目がまわる……

 どこかでがたん、 と音がした。 猫が鳴き始める。 僕は夢の中から引きずり出された。 いつの間にかまたもぐり込んでいた猫が、 毛布の中から飛び出すのが分かった。 慌てて肘をついて体を長椅子から起こす。 目が霞む。 めまいがする。 立ち上がろうとしてよろけて、 壁に頭からぶつかる。 痛い。 ちくしょうめ。 熱があるようだ。 俺は馬鹿だ。 何の用意もなしに突然部室に泊まるようなことをするからだ。 

 部屋のドアが開いていた。 ドアはまだ微かに揺れていた。 


  4

 猫の姿が見えなかった。 

 頭が混乱していたが、象の横腹を飛び出してスロープを駆け上がる途中で、 部室を出るときにパック入りの牛乳を蹴飛ばしたことを思いだした。 そばにパンもあった。 誰かがあの猫のために (それとも、 僕のためにだろうか?) 床に置いたのだ。 慌てていたのでそのままにしてきた。 

七号館前の通りに出る。 問題は左右どちらに行くか、 だ。 右は両側が校舎で、 百メートルほど行ってT字路にぶつかる。 そちらには誰もいない。 左にも人影はなかったが、 すぐに大きな通りにぶつかり、 そこには人通りがある。 猫はどこにも見えない。 手がかりはなにもない。 僕は左を選んだ。 

 大通りに出て、 そこも左折した。 緩やかな登りになっている。 僕は駅に向かっている。 走っている。 小雨が顔に当たる。 道行く人がちょっと驚いたように僕に道を空ける。 教会の横を通り過ぎるともうすぐ駅だ。 息が上がってくる。 その時僕は、 それらしき人影を見つけていた。 

 その女性の影は、 猫を抱いて通りを横断しようとしていた。 振り返った。 そして、 渡りきる前に、 ほとんど止まりそうになり、 信号が変わって動き始めた車に警笛を鳴らされて歩道に上がった。 そしてすぐにまた振り向いて立ち止まる。 僕を見ている。 もう僕はここに来ている。 大通りを挟んで向こう側に彼女がいる。 信号が赤だった。 彼女はもう、 僕を見てはいない。 猫を抱いたままうつ向いていた。 クリーム色のスウェターが似合っている。 赤いスカートが目に鮮やかだった。 膝から下が見える足が寒そうだった。 なんだか少し痩せたみたいに見える。 遠目にもとても美しかった。 信号はいつまでたっても赤のままだった。 小さなうつむいた姿がタクシーやバスの向こうに見え隠れした。 馬鹿だな。 最後までいつもと同じじゃないか。 意地を張ることしかできない。 僕は彼女の姿を見失ってしまうのではないかという恐れに体を強ばらせて突っ立っていた。 

 猫が、 すとんと彼女の腕から飛び出して歩道に降りるのが見えた。 と、 彼女が止める間もなく猫は大通りをこちら側に向かって、 いや、 明らかに、 この僕に向かって、 渡り始めた。 

 向こう側で彼女が何事か悲鳴のように叫んだ。 車が二、 三台続けてクラクションを鳴らし、 急ブレーキのタイヤのきしみが耳を覆った。 手前の車がスリップする。 

 猫の姿が消えた。 

 次の瞬間、 走り抜ける白い乗用車の下から猫が飛び出すのが見えた。 死にもの狂いの形相で僕に向かって駆けてくる。 ほとんど車を避けようともしない。 

 猫は、 道を横断し終わるとそのまま猛烈なスピードで差しだした僕の腕をつたって肩に駆け上がる。 僕は彼が背中を回って胸に降りてきたところを捕まえた。 猫は激しく震えていて、 僕のポロシャツに情け容赦もなくしっかりと爪を立ててしがみついた。 僕は猫に声を掛けてやり、 抱き締めて根気よくなでてやった。 ようやく少し落ち着いてくる。 

 顔を上げた時には、 通りの向こう側に彼女の姿はなかった。 とっさに立ち上がって駆け出そうとすると、 猫が驚いて僕の腕の中で、 うあーおぅ、 と言った。 僕は立ち止まってしゃがみ込んだ。 小猫を抱き締めた。 息を止めてこらえた。 


  5

 昨日、 チロが死んだ。 

 十四年間一緒だった生き物に死なれるというのは想像以上に辛いことだった。 

 「チロリンが動かないよ。 パパさん。 チロリンが寝たままで起きないのよ」 夕方、 三歳の娘が目に涙をいっぱい溜めて、 二階に上がってきた。 僕の腕を掴んで屋外の 「猫小屋」 に連れて行こうとする。 

 階段を降りて行きながら、 僕は十四年前を思いだしていた。 不思議なことに、 彼を押しつぶそうと恐ろしい勢いで迫ってくる鉄の塊の間を駆け抜けて、 僕の胸に飛び込んできた時のチロの小さくて熱い感触が、 まざまざと胸に蘇っていた。 

 あの時彼は何故、 僕に向かって駆けてきたのだろう? 僕は時々思い返してはそう自問した。 なにをするでもなく、 ぼんやりとチロを眺めているようなときに、 ふとそんな疑問が浮かび上がる。 猫語に精通することがついに出来なかった僕には結局分からないことだったけれども、 その疑問は折りに触れ繰り返し僕に答えを求め続けた。 彼はそんな僕の思いを知ってか知らずかのんびりとその日暮しを続け、 時々近所の猫や犬と喧嘩をし、 雀を捕り、 風邪をひき、 たまに二、 三日の旅行に出かけ、 三軒先の箱入り猫を妊娠させ、 ゆっくりと年老いていった。 僕に分かったのは (あるいは、 だんだん明瞭になってきたと思われたのは)、 あの道路横断は彼にとって、 戦場で銃弾の雨の中を駆け抜ける兵士さながらの行為だったのではないか、 ということだ。 

 とすればなおさら、 僕には分からない。 

 彼は何を考えていたのだろう。 

 何故僕の元に、 来たのだろう。 

 そんな時ふと、 こうも思う。 あの時僕は、 苦しんでいた。 僕の心は憎しみでいっぱいになって、 彼女のことも、 彼女から避けられるようになっていた僕自身のことも、 真っ二つに引き裂いてやろうと思っていた。 だから、 あの時お前に出会って、 チロ、 お前も彼女に捨てられたんだ、 僕等は似たもの同士だよな、 そう思って僕は少しだけ慰められたものだった。 お前はお返しに最後の瞬間に彼女を捨てて僕のもとに来たのだ、 僕は心密かにそんなことをまで思ったのだ。 そう思わずにはいられなかった。 でも、 それは違うんだね、 チロ。 お前は誰からも捨てられはしなかった。 誰をも捨てはしなかった。 第一、 捨てるって何だろう。 そんなものは、 人間の勝手な言い草だよな。 お前は何かを選ぶ。 それだけなんだ。 「なぜ」 や 「どうして」 は、 なし。 

 そして、 お前は来たんだね、 チロ?

 その晩は、 娘と妻と僕とでチロのお通夜をした。 チロはとても穏やかな顔をして木箱に収まっていた。 

 今日の朝、 庭の右隅の紫陽花の横に、 彼を埋葬した。 少し盛り上がった土の上には墓碑代わりに小さな板を立てた。
 そこには娘の字で 「チロリンのおはか」 と書いてある。 


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 付記)この物語は、おそらくぼくが30歳をいくつか越えた頃に書いた。特にどこに発表するあてもなく、ただ、書きたくて書いた。すらすらと書いて、ほぼ描き直しもしなかった。後に、「新現実」という同人誌に誘われた時に、多少いじって載せてもらったあと、短編集『土星の環』(2004.11)に収録した。(所英明)