2004年11月に発行した小説集『土星の環』のコンテンツを
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 土星の環


 中学校――今の僕にとってはすでにおそろしく遠い世界だ。 なんだか、 おもちゃの望遠鏡で土星を覗いているみたいな気分になる。 土星の回りにはレコード盤のような環も見える。 しかし、 すべてが曖昧で、 ぼんやりと霞んでいる。
 それでも、手を伸ばせば、届きそうに思える。
 もちろん、 手は空をかくだけだ。
 ぼんやりと、 目の前に浮かんではいるが、 もう二度と手は届かない。
 僕は諦めて望遠鏡から目を離す。
 届かなくてよい。 見えなくてよいのだ。 なまじよく見えたりしたら、 おそらく僕は耐え切れまい。
 もはや自分とは思えぬほどに若い自分の、 一挙一動が気になり、 振舞いの粗雑さ、 言葉使いの無神経さに顔を赤らめるくらいではすまず、 怒り出してしまうかも知れない。
 いや、 そうではないのかもしれない。
 粗雑で無神経なのは、 今の自分の方なのかも知れないのだ。 おそらく、 当時の僕が時を越えて今の僕を見たとしたら、 初めてマスターベイションという言葉の意味を知ったあの日のように困惑し、 未来の自分の顔から目を逸してしまうに違いない。
 もちろん、 望遠鏡から覗いている限りにおいては、 僕の中学時代のさまざまな記憶を詰め込んだレコードそのもののようなあの土星の環のみぞに針を乗せ、 小さなポータブル・プレーヤーでこっそり再生できたら、 と思わないでもない。 ところが、 実際の土星の環は、 直径が十四万キロもあるのだ。 仮に、 このレコードをかけられるプレーヤー・セットがあったとしても、 その再生音は、 人の脳味噌を叩き出すようなもの凄さで太陽系全体に響きわたるに違いない。
 考えるだけで、 頭がおかしくなりそうだ。
 だから、 おもちゃの望遠鏡を、 裸眼で見るくらいが一番いいのだろう。 あまりにものが見え過ぎたり聴こえ過ぎたりするのは、 考えものなのだ。
 もっとも、 中学時代、 僕は裸眼でも一・五あった。 あの当時は、 何でも良く見えた。 新校舎の屋上から、 旧校舎の教室で女子が着替えているのを、 双眼鏡もなしでバッチリ覗けたくらいだ。
 今では信じがたい気がする。
 男子五、 六人で覗きに出かけたことが、 だ。
 僕はそう言うタイプではなかったのだ。 もちろん、 覗きたいのはやまやまだけど、 そういうことはしちゃいけないことだ、 とかなんとか真顔で言って、 みんなを押しとどめるようなタイプだったのだ。
 そして、 多分、 確実に、 散々迷った挙げ句あとでこっそり覗きに行ったりするのだ。 (その時どんな顔をしていたかなんて聞かないで欲しい)
 ところが、 そのころには先発隊がどじを踏んで見つかり、 大騒ぎだ。
 やれやれ。  
 考えたくもない。

   1
 
 二年になってクラス替えがあった。
 校門横の掲示板に、 新しいクラスごとの生徒の名前が張り出されている。
 二年五組か……あ、 木下がいる、 津田もだ。 ……お、内藤……たすかった。 あれ、 なんだ……麻生さんいないや……。
 がっかりだな……。
 どくん、 どくん、 とうるさいほど高鳴っていた心臓が、 潮が引くように静まっていく。
 こんなにがっかりするなんて、 おれ、 やっぱり麻生さんのこと、 好きだったのかな。 ちぇ、 女々しいぞ。
 周りでもわいわいがやがや騒がしい限りだ。
「あたしやだぁ、 アッコとはなれたくないよー」
「おれ、 これで小五から四年連続で加藤と一緒だぜー。 なんとかしろよー」
「おい、 守、 守。 来て見ろよ。 ほれ、 おれまた早川さんと一緒」
「どうしたんだ。 黙り込んで。 おまえいやなのか?」
「どーしよー。 金沢たちとまた合っちゃったー。 もういやだ」
 えとせとら。
 教室でもまたひと騒動だった。
 席順をどう決めるか。
 新担任の川口先生の考え方いかんだ。
 取り合えずこうしておこう、 と川口先生は言った。 僕らは、 男女一列ずつ交互に、 黒板に向かって右側からあいうえお順に席についた。 結局、 その取り合えずが年度の終わりまで続くことになる。
 隣の席は、 谷口香織という女生徒になった。
「この線からこっちになにかはみ出したら」 と、 香織は二人用の長細い机のまん中に定規と鉛筆で線を引いてから言った。 「あたしのものよ」
「それじゃ、 もし君がはみ出したら?」 と、 僕は聞いてみた。
「あたしははみ出さないもの」
 僕は腹をたてたが、 何も言い返せなかった。
 それから一か月の間に、 僕は消しゴムを二つ取られた。

   2

 何かが、 変わり始めていた。
 いつから、 変わり始めたのかは良く分からない。
 丁度、 夏休み中の合宿練習の時みたいに、 始めたときは存在しないかに見えた校舎の影が、 練習を上がる時分には長々と校庭を横切り砂場に届くほどに伸びている。 そんな具合いだった。
 ある時、 岩崎知子を見ている自分に気付いたのだ。 あれ、 また岩崎を見ていたな、 と……。
 別に意識しているつもりはなかった。
 クラスは違ったが、 同じ小学校だったし、 それほど目だつわけでもなかった。 目だつようなことは嫌うタイプという感じだった。 二年になって同じクラスになったことだって、 初めはほとんど意識していなかったくらいなのだ。
 それなのに、 近ごろの僕はふと気付くと目で岩崎の姿を探している。
 先生が授業の中で何か冗談を言う。 みんながどっと笑う。 僕も笑いだしながら、 ふと、 目は岩崎のいる方に流れていく。
 岩崎知子が笑っている。
 その横顔を見ている自分に、 ふと、 気付く。
 気付いて、 気付くけれども、 僕はそんな自分を持て余して、 それ以上考えることから逃げ出して、 忘れたふりをする。
 そして実際、 忘れることだって出来たのだ。
 どんなにか僕達は自由であったことだろう。 世界はまだ全然探検されておらず、 これから何物になろうとお好み次第であった。 波乱万丈の冒険も、 生涯でただ一度だけの激しい恋もまだ先のことだった。
 だから、 だろうか。
 僕は毎日きちんと学校に通い、 比較的真面目に授業を聞き、 時々褒められ、 ごくまれに叱られた。 休み時間はクラスの仲間たちとふざけ合い、 あるいはささいな喧嘩を繰り返した。 成績は中の上の辺りをさまよっていた。 上位グループに食い込むことはなかった。 食い込みたいのかどうか、 自分でも良く分からなかった。
 僕がラジオを聞き始めた頃、 ビートルズが解散した。 歌謡曲を馬鹿にしてポップスのヒットパレードを毎週チェックしては、 お気に入りのスターたちがチャートを上下するたびに一喜一憂していたものだ。 あの当時僕のアイドルはボビー・シャーマンだった。 やがてそれは、 既に解散していたボーカルグループ 「ママス・アンド・パパス」 に取って代わった。
 共通の趣味を持つ男と教室にポータブルプレーヤーを持ち込んで、 僕らのベストテンを片端からかけて聞かせたこともある。 たぶん、 大多数のクラスメイトにとってはただの雑音でしかなかっただろう。
 そして僕らは、 飽きることなく誰それは誰のことを好きらしいと噂し合ってはそわそわし、 無為に日々が過ぎていった。 僕は知子の気持ちを確かめようともせず、 同じ班で実験をし、 掃除のときにそれとなく手伝ってやり、 何度か日直を一緒にやった。 純粋に二人だけで何かをしたことは一度か、 二度あるだけだ。 僕らは、 体育祭の準備で当日の進行表を作り、 色がみに謄写版印刷のパンフレットを作った。 今でも、 その楽しさを覚えている。 そんな日々に僕は特に不満を持つでもなく、 いずれ訪れる何かをじっと待っていた。 知子がどう考えていたのかは、 知らない。 彼女は僕に何も言わなかった。 僕も彼女に何も聞かなかった。 ただ時がながれ、 ものごとの始めが、 終わりに置き換えられていった。
 知子という少女が、 少女であって、 僕も少年と言う他はなかったあの日々の光景は、 いまでも僕の記憶の中に乾燥した押し花のように挟まっている。

   3

 岩崎知子には、 中学卒業後二年目に偶然一度だけ町で会った。
 僕は地元の県立の高校に行き、 彼女は東京の私立に進学した。 僕も彼女も帰宅途中の路上でばったり顔を会わせたのだ。 しばらく一緒に歩き、 バス停近くの三叉路で別れた。 何を話したのか、 良く覚えていない。 というより、 ほとんど何も喋らなかったような気がする。 喋りたいことがなかったのかも知れず、 あるいは余りにもあり過ぎたのだとも言えるのだろう。 僕はたぶん、 相手を意識し過ぎていたのだ。 あるいは、 自分を意識し過ぎていたのだ。
 何度もほんとうに言いたいこと、 あるいは言うべきことが、 口元まででかかったように思えたが言葉にはならなかった。 他でもない自分自身の感情を名付けられずに空しくもがいていたのだ。
 僕らは実にしばしば自分たちの感情に間違ったラベルを貼付ける。
 大抵の場合、 「希望」、 というラベルの下には 「願望」 が隠れている。 「恐れ」 の上には乱暴に 「怒り」 と書き殴られる。
 僕達は、 自分自身の正直な感情に直面するのを常に恐れているのだろう。
 人を思うごく自然な気持ちの上に、 僕らはしばしば無用のラベルを何枚も貼付けてしまう。 その気持ちが純粋であればあるほど損なわれるのが怖いのだ。
 それが我々人間だ。
 だからと言って、 降伏する気などなかった。 僕はまだ若さのまっただ中であったし、 自分自身の感情を把握できないのはとても我慢できない屈辱だった。 そして、 おそらくは、 それ以上に自分が自分を偽ることを恐れ憎んでいた。
 その結果、 僕の戦いは果てしのない持久戦の様相を呈することになった。 それでも僕は、 負けはしないつもりであったのだ。
と、 いうわけで、 その日僕は岩崎知子とほとんど何も喋らなかった。
「いい天気だね」
「ほんとね」
「いやぁ、 ほんとにいい天気だ」
 それだけだった。
 僕らは互いに対する地球上の何よりも大切な問いを五十万ずつ抱えたまま、 空しい微笑みを顔に浮かべて歩き続けた。 僕は時々、 僕はいまだにそうやって一人で歩き続けているのかもしれない、 と思う。 とっくに失われた純粋さの抜け殻を抱えて、 歩いてはいるが、 すでに目的は失われている。 それが今の僕だ、 と。 だとすれば、 一体僕は、 何を恐れていると言うのだろう?
 知子と会ったのはそれが最後だった。 もう、 これからだって会うことはないだろう。
 別れしな、 知子は僕に笑顔を見せようとしてくれた。 彼女はその笑顔で別れを告げようとしていたのではない。 彼女は問いかけていたのだ。 この僕に。
 何故なの? と。
 僕には答えられなかった。 今の僕にも、 答えることは出来ない。

   4

 クラスメイトのSが次の体育の時間は男子は休講だから、 女子の着替えを覗きに行こうぜ、 といったとき、 僕達はてんでに笑い声を上げたり顔を赤らめたり呆れたりしながら取り合わなかった。 もちろん、 僕らに好奇心がなかったのではないが、 かといってそれをあからさまにするにはいささか純情に過ぎたのだ。 誘いをかけたSにしてからが半ば冗談、 後の半分は叶わぬ望みの表明といった感じではなかったかと思う。 僕らは誰も、 僕らと同じほど愚かなくせにやっと幼年期を脱したばかりの未熟なからだで僕らをひきつけてやまぬ生き物、 同学年の女子たちを、 口ほどにもなく崇拝していたのだ。
「馬鹿、 どうやって覗くんだよ」
「屋上からならわかんないぜ、 きっと」
「カーテンがなけりゃな。 もちろん、 着替えるときゃ、 ばっちりカーテンひいてるよ」
「ダメかぁ。 則子あたりに頼んでみようか。 出来るだけ早く着替えてカーテン開けろって。 あいつおもしろがってやるかもしれないぞ」
「無理無理」
「掃除道具入れに隠れてるってのはどうだ?」
「いいねー。 俺が鍵かけといてあげよう」
「見つかって袋叩きが落ちさ」
「ま、 やめとこーよ。 逆に裸に剥かれちゃうよ、 きっと」
「でも、 近ごろ三条さん、 胸ふくらんできたよな。 一年前に比べたら随分ふくらんだぜ」
「いやらしーなー。 だからおまえはすけべだっつーの!」
「おまえだって、 島田さんのこといつもこっそりみてんだろー! 知ってんだぜ」
などなど。
 正確ではないかも知れないが、 僕らはこんなふうに冗談を言い合っていた。 ところが、 誰かがふと、 こう言ったのだ。
 簡単だよな。 カーテンの止め具をひとつかふたつ、 壊しておけばいいんだ。
 その途端、 僕らは一瞬黙り込んでしまった。
 屋上は思いの外寒かった。それとも、僕は冷汗をかいていたのかも知れない。
 カーテンの止め具はKが壊した。 じゃんけんで彼が負けたからだ。 僕らは最初から最後まで冗談を装っていた。 奇妙に快活で、 どことなくヒステリックだった。 僕は、 視力のテストが出来るね、 といったのを覚えている。
 屋上からはグラウンドが見え、 体育館が見え、 女子がこれから着替えをする校舎が見えた。 逆に言えば、 グラウンドからも体育館からも着替え中の女子からも、 こちらが見えると言うことだ。
 ちょっと屋上のコンクリートフェンスの上から顔を出してみた。
「おい、 まだカーテン開いたままだ」 とMがいった。 声がかすれ気味だった。
「これからさ」 Kは真面目に自分に言い聞かせるようにいった。
「みんなで顔だしてちゃやばい」 Sは心配そうにそわそわしている。
「ここじゃ、 ひとりでもえらく目だつぜ」 とMは憂うつそうな顔でいった。
「雁首並べてさ、 さらし首みたいに見えるぜ、 きっと」
「おれ、 なんだか、 自分が裸になってるみたいな気がするよ」 そう、 僕はいった。 なにかいわないと落ち着かなかったのだと思う。
「みんな、 頭引っ込めろ!」
 Sが突然、 押し殺すような鋭い声でいった。 僕らは一斉に屋上で腹ばいになった。
「どうしたんだ」 と、 Kが小声でSに尋ねた。
「グラウンドのやつが、 ひとりこっちを見上げた」
「気が付いたのか」
「わからん」
「気のせいじゃないのか」
「わかんないよ!」
「そろそろ着替え始めるぞ」
「よし、 おれは見るぞ」
「まて! そこからじゃまずい。 あっちの角からならわかんないと思うな」
 一瞬沈黙があった。
「あそこからじゃ、 ひとりずつしか覗けないぜ」
「じゃ、 交代で見るんだ。 順番はじゃんけんで決める」
「ひひひ、 異議なーしよ」
「気持ちの悪い奴だな。 制限時間はひとり二十秒だ」
「少ないよ」
「すぐ終わっちゃうかもしれないだろ。 最後まで行ったらまた始めに戻る」
「なんでもいい! 早くじゃんけんしょうぜ!」
 なんと、 僕はびりだった。
「お、 カーテンが閉じてる。 でも、 上の方だけ開いてるぜ! 成功だ。 見える。 誰だろう、 あれは……」 Kの実況中継は、 いやが上にも僕達を興奮させ、 気をはやらせた。
「見えない。 視力が落ちたのかな……あ、 脱いでる……あ、 まてよ、 もうちょっとだけ……」 と、 交代したS。 二十秒が長いのか短いのかは良く分からなかった。
 僕の順番がやってくるまでに、 貴重な一分数十秒が過ぎた。 KもSもMもそれぞれ実に奇妙な表情を浮かべて振り向いた。 なにかとんでもない偶然が味方して、 信じられないほどの大発見を成し遂げたことに気付いた直後の小心な独身科学者、 といった表情だ。
 奇妙なことに、 僕の記憶はここで途切れている。 この後のことがとても曖昧になってしまうのだ。
 いや、 そうではない。 もっと正確に、 出来うるならば正直に、 書くべきなんだろう。
 正確には、 記憶がないのではない。 記憶はあるのだがとても正確なものだとは思えないのだ。
 うまく言えそうにない。 だから、 とにかく見えたと思うままにここに書こう。
 僕の順番がきて、 緊張してがちがちになった体で、 屋上の角に僅かにでっぱったコンクリートの陰に出来たスペースに体を押し込んだ。 そこから首を延ばすと……ぐらっと視界が傾くような気がした。 相当な高さだ。 右の方にグラウンドが見える。 視界の端をこぼした砂糖のような体操服の人影が流れる。 校舎は斜め左……三階のまん中……カーテンが閉じている教室。 だめだ。 とても見えない。 第一どこにもカーテンがめくれているところなど……あった!
 下の方は閉じているが上の方は止め金が壊れたままだらんとカーテンがめくれており、 ちょうど三角形の窓になっている。 でも、 あまりに遠い。 確かに人影が見えはするものの服を着ているかどうかさえ判定しがたい……。
 ところが、 その時だ。
 その小さな三角形の中に岩崎知子が入ってきた。
 僕にははっきりとそれが見えた。
 まるで目の前にいるように見えたのだ。 うそじゃない。 彼女のくちびるが動くのまで見えた。 誰かと二、 三言笑顔で言葉を交わし (もちろん、 言葉は聞こえやしないが)、 体操服を机の上におくと、 白いブラウスのボタンを上から順に外し始めた。 彼女がふわりとブラウスを脱ぐのが見えた。 滑らかな肩から腕にかけての線、 百合の花のように細いウエスト、 白いブラジャーに隠された小さな胸。 その彼女の姿全体が、 鋭いきりのように僕の目に突き刺さった。
 しかし、 その次に彼女がしたこと。
 したように見えたこと。
 あるいは、 ぼく記憶の中に何かの奇跡のように焼き付けられた光景  は、 僕の予想もしないものだった。
 彼女はブラウスをきちんとたたんだ。 それから、 両手を背中に回すと、 ブラジャーを外した。 白い乳房が現れた。 ゆっくりと顔をあげた。 彼女は屋上にいる僕の目を、 ためらいなくまっすぐに見上げていた。
  「二十秒過ぎたぞ。 どけよ」 と、 Kがいった。 頭から足の先まですっかり麻痺してしまったような僕は、 引っ張られるままに交代した。 次の瞬間、 突然衝動的に僕はKに掴みかかっていた。 口もきかず、 自分でも驚くような力を込めて、 Kを屋上の端から引き離そうとしていた。 ……
「馬鹿、 やめろよ、 何、 す、 るんだよっ!」
「どうかしたのか、 T、 何やってんだ」 押し殺した声が飛び交う。 僕の肩に誰かの手が掛かった。
 誰かが僕の行動を勘違いしたのだろう。 素早く階下に降りていった奴が、 慌てて戻ってきた。 「やばい。 誰かがカーテン閉めようとしてる。 気付かれたぞ」
 みんなは慌てふためいて屋上から降りた。 僕ものろのろと後を追った。 夢の中を駆けているような気がした。
 
 ところが、 結局、 何事もなかった。
 KやSはひと騒動起きるのを覚悟して次の授業に出席した。 しかし、 女子に変わった様子はなかった。 誰も気付いていなかったのだ。 どうしても出る気になれず、 その時間をエスケープしてしまった僕とMにSが知らせにきたときも僕は信じられなかった。 少なくとも岩崎は知っている。 そう思ったが、 いつまでも彼女を避けてもいられなかった。 僕は著しく混乱しており、 彼女に告白したい、 という気持ちを抑え切れなくなりそうだった。 しかし、 彼女はまったくいつも通りの彼女だった。 僕に特に興味を抱いているようには見えなかった。
 こんなことは有り得ない。 それは良く分かっている。 どう考えても (いくら当時は視力が良かったとしても) そこまで詳しく見えたはずはないし、 彼女がブラジャーを外して僕にみせてくれる理由なんてないし、 仮に僕らの悪巧みが事前にばれていたにしても、 迷いもなく僕の目を見上げることなんて、 出来るはずがないのだ。
 だから、 ごく単純に考えればこうなるだろう。 僕は興奮の余り (!) 露骨に願望充足的な白昼夢をみたのだ、 と。 視力が及ばない部分を、 想像力が自動的に補ったのだろう、 と。
 こう考えることも可能だ。
 これは良くある記憶の混乱に過ぎない。 幼児期の記憶などでは良く起こるが、 起きたことと人とを結ぶ糸がこんぐらかって、 別々のことと人とが勝手にくっついてしまい、 ありもしない物語を作ってしまう、 そんなことだ。
 あるいは、 確かに、 そうなのかもしれない。
 そう考えた方が説明もつき易い。
 だから、 たぶん、 そうなのだろう。 それにこれはみんな、 とっくに過ぎ去った時間の壁の向こうの話なのだ。 KやSに今日確かめたところで覚えているかどうかすら怪しい。
 ただ、 時々ふと、 こう思う。
 もし彼女が、 何かの偶然で、 予め僕等のたくらみを知っていたのだとしたらどうだろう、 と。
 すると、 彼女は、 知っていて裸になったことになる。 (結果として) 僕だけが見たのだとしても、 そのことを彼女は知り得ただろうか。 僕等のうちの何人かに、 あるいは全員に、 自分の一番無防備な姿を見せてなお、 あのように穏やかにいられるものだろうか。
 少なくとも彼女は、 僕に対してあの後先で、 態度を変えたりはしなかった。 むしろ、 心持ちやさしくなったようにさえ感じられた。 それを心密かに負い目に感じていたのだ。
 当時の僕は、 そうだった。
 それを思うと、 本当に辛い。
 もうひとつ、 何故だか連想してしまう断片的な記憶がある。 この記憶も、 親とはぐれた子犬のように、 気がつくと片隅に座って、 じっと僕を見上げているのだ。
 ある時 (いつのことだかまったく思い出せないけれど)、 僕は教室で女子に囲まれていた。 十名近くもいただろうか。 どういうわけか、 男は僕ひとりだった。 その前後のことは何も覚えていない。 ただ、 僕の正面に岩崎知子がいて、 罠にかかった野生のキタキツネのような真剣な目で僕の目をのぞき込み、 こう聞いたのだ。
 
 Tくんは、 エッチじゃないよね。
 しばらく、 答えが出てこなかった。 ヒューズが飛んでしまったような具合いだった。 女子生徒の視線が僕に集中していた。
 もちろんさ。
 そう僕は言った。
 他にどう答えれば良かったのだろう、 と僕は今でも時々考えてみる。
 彼女たちは、 結局のところ、 正しい答えを求めていたのではなかったのだ。 彼女たちが求めていたのは、 隠しようもなくあらわになる自分たちの愚かさや未熟さを丸ごと隠してくれるような何かだったのだ、 と今は思う。

   5

 土星は、 地球から十億キロも彼方の冷たい宇宙空間にぽつんと浮かんでいる。 確かにあの日、 手の届くところにあったはずの土星は、 いまではあまりにも遠い。 僕は望遠鏡に目をあてる。 いまでも聴こえるかも知れない僕の土星の環に刻まれた音に耳を澄ます。
 もうほとんど、 なにも聴こえない。
 あの時僕は、 なにもできなかった。
 今の僕になら、 なにかができるのだろうか。
 そうであってほしい。
 だが、 ほんとうのところは、 分からないのだ。 あのころの僕がどうしても持ち得なかったものを幾らかは持った代わりに、 おそらくは、 持ちたくもないと思っていた幾多のものまで抱え込む羽目になった僕なのだから。
 でも僕はいま、 僕の望遠鏡を押入に仕舞おう。 いつか僕が本当に年老いて、 過去に生きる人間に成り切ってしまう日まで。
 僕は僕の望遠鏡に目をあてながら、 いつも繰り返し祈ったものだ。 でも、 とりあえず、 これが最後だ。
 知子の裸の肩に、 そっとブラウスを掛けてやりたかった。

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最後までお読みいただきありがとうございました。
小説集『土星の環』フォーラムに感想等を書き込む
  最後に、「あとがき――あるいは、『弁護士への電話』」を読む

2007-06-26
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