2004年11月に発行した小説集『土星の環』のコンテンツを
全文お読み頂けます。

 


  日比谷パークの夜の虹


 僕は時々、 夜、 長い散歩をする。 天気の良い、 星が明るい夜は特に。
 歳を取り、 ひとり暮らしも危うくなった父が住む、 実家のすぐ近くにアパートを借りて移り住んで以来、 就眠の前にアパートを出て、 父の様子を見に行くのが僕の 「仕事」 になった。 時間に余裕のあるときはもちろん、 仕事や遊びで遅くなったときでも、 とにかく様子を見に行くことにしている。
 何をするというわけではない。
 顔を見て、 ベッドに入るのを確認し、 灯りを消して、 また明日、 と言う。 それだけだ。
 玄関の鍵を閉め、 そっと夜の空気を吸う。 そして、 アパートに戻る。
 時折、 まっすぐ戻らずに、 散歩がしたくなる。 ただ、 夜道を歩く。 匂いが違い、 皮膚に触れる空気が違う。 別の世界に来たみたいな気がすることもある。 昼間通った道も、 別の道になる。
 冷たい水が、 湧き出るように、 様々な記憶や感情が、 心を満たしていく。
 ため息をついて、 空を見上げる。
 夜空。
 星座に詳しいわけではないが、 冬になると現れるオリオン座だけはすぐに分かる。
 あの、 夜空に描かれる圧倒的な四角形と、 その中に斜めに配置された三つの宝石の構図は、 見事というほかない。
 そして、 リゲルやベテルギウスの硬質な輝きを見上げていると、 何故か僕は、 彼のことを思い出す。
 彼と出会ったのは、 湾岸戦争があった年だ。
 多国籍軍が圧倒的な現代兵器の威力を見せつけたあの戦争のあった年。
 それを、 ずっと以前のこととして感じる。
 僕は、 その年を、 早くも忘れかけている。
 あの、 大きく報道された油まみれの鳥の姿だって、 誰かに言われてやっと思い出す。
 そんなことも、 確かにあったな、 と。
 それでも、 あの年のことを思い出すと、 わずかに心が痛い。 あれから、 様々なことがあったけれど、 何かが終わり、 何かが始まったとすれば、 それはあの年のことだったと思う。
 少なくとも、 僕の記憶に関して言うならば、 いわばあの湾岸戦争が大きなコーナーだった。 あの曲がり角の向こう側は、 いまではほとんど思い出せない。 いや、 正確には思い出せないのではない。 違った風景に見える。 何か別世界のような懐かしさを伴う風景として。
 しかし、 あのコーナーからこちら側は、 「いま」 に続いている。 その 「いま」 の起点として、 小さなテレビ画面の中、 多国籍軍のミサイルは、 今日も夜を切り裂いて飛んでいる。
  1 ナイスショット
 打ったゴルフボールがコースから外れ、 とんでもない方向に飛んで行きさえしなければ、 僕は彼と話すこともなかった。 しかし、 僕は考え事をしていて上の空でスウィングし、 当たり外れのボールを隣のコースに飛ばした。 木々を飛び越えて落ちた先に彼の後頭部があった、 というのは単なる偶然  ではあったけれども、 彼にはその偶然に感心する暇もなかっただろう。
 ひどい話だ。
 遠く木々の向こう側で、 なにやらよく聞き取れない叫び声があがった時、 僕はまずいことが起きたと直感した。 胃の辺りが冷たくなった。 接待先の部長の戸惑った顔に、 とにかく断りを入れてから、 コースを隔てる林に飛び込んで行ったことを覚えている。
 それからのひとときは、 時間の流れが突然急流になったようにせわしなかった。
 救急車で運んだ先の病院で、 彼が目をさましたのは夜になってからだった。 いくつかの検査が続けて行われ、 しばらくして若い医者から万が一の場合についての恐ろしい話をたっぷりと聞かされ、 僕は相当ナーバスになっていた (例えば、 一見何も異常がなく、 脳波も正常であって、 かついつまでも目覚めない患者がいる……なんて類のぞっとしない話だ)。 だから、 ベッドサイドの椅子に腰掛け、 彼が意識を取り戻すのを神様や仏様やその他ご利益がありそうなものになら何にでも頼みたい心境になって見守っていたものだ。
 午後八時半頃になって、 彼の無表情だった顔にわずかに表情が現れた。 かすかに眉をひそめて、 口元を歪めた。 身動ぎする。 僕は夢中でベルを鳴らした。 いや、 音はナースセンターで鳴っているはずだった。 ベルに応えて看護婦がやって来る。
 一見してベテランと分かる看護婦は、 僕に 「どうかしましたかー」 と語尾を伸ばして言う独特のアクセントで声をかけながら、 目は患者の様子を的確に観察し、 体は素早く動いて体温や脈拍、 瞳孔などを確認していく。
「顔にちょっとだけれど表情が表れたんです。 身動きもしました」 そういう僕に頷いて見せ、 その間にも、 意識を取り戻しそうな彼の様子を観察して 「先生を呼びますから」 と告げると、 安心させるように笑って部屋を出て行った。
 じりじりする焦燥感に耐えて待っていると、 中年のひょろひょろと痩せた男の医師が先ほどの看護婦と一緒にやって来た。 彼は僕の方は一顧だにせずカルテを確認しながら診察していった。 僕は思わず腰を浮かしてベッドの周りでそわそわしていたのだけれど、 看護婦に目で軽く制されて、 部屋の隅の椅子に戻ったりしていた。
 医師と看護婦の背中の向こう側で、 くぐもったうなり声がした。 僕はまた腰を浮かした。 彼が意識を取り戻したのだ。 ベッドを囲む人々をぼんやり見回しているようだった。 何かを理解した、 と言う様子は現れない。 しかし、 医師が問いかけることにはたどたどしく答えている。 気分は悪くない。 吐き気もない。 頭は痛い。 ……
 やがて医師は満足したらしく、 看護婦に新たな検査や治療の手続きを指示し、 僕をちらりと見ると、 案外感じのよい笑顔を見せて頭を軽く下げると、 急いでいる様子で部屋を出て行った。 看護婦は残ってベッドを整え、 患者に小声で話しかけている。 彼は相変わらず目を開けてはいるもののぼんやりとしている。 時々顔をゆっくりとしかめる。 片手を毛布から出して、 包帯が巻かれている頭を探って、 看護婦に止められている。
 結局椅子に座ったまま、 居心地悪く様子を見ていた僕に、 看護婦が向き直る。
「ご家族からの連絡はまだないんですよね?」
「ええ。 ひとり暮らしで、 実家は九州らしいんです。 あの、 大丈夫なんでしょうか」
 看護婦は、 大丈夫ですよ、 異常は発見されていません、 と小声で言って頬笑んでから、 今日はどうされますか、 と聞いた。 付き添って泊まるつもりです、 と答えると、 よかったらベッドをお使いください、 毛布も使っていいですよ、 明日主治医の先生からお話があると思います、 と言った。 不安な気持ちを完全に拭うことはできなかったが、 本人が隣で寝ていることもあり、 それ以上症状について突っ込んで聞くのはためらわれた。 看護婦は、 また頬笑んでから病室を出て行った。
 分かってみると、 僕が接待ゴルフなら、 彼も接待ゴルフだった。 いずれも接待する側。 しかし、 僕の一打で接待ゴルフは中断。 結局、 双方中止にはせず、 僕の方は取引先の方だけで続けてもらうように手配し、 彼の方は彼の上司が彼抜きで続けることを決めた。
 彼の上司からは罵詈雑言を浴びせられ、 ひたすら傾聴するしかなかった。 僕は僕で、 自分の勤め先に電話を入れ、 ゴルフ場経由で救急車の手配を頼み、 何より意識を取り戻さない彼の様子が気になって、 動転しそうな自分を自制するので必死だった。 彼の上司なる人物は、 実際には彼のことをほとんど知らず、 彼の会社の人事担当者に話を聞いて彼がひとり暮らしであることを確かめた。 その人事担当者が九州の実家に電話を入れてくれたのだが、 誰も出ないとのことだった。 川崎に住んでいるという保証人の電話番号を聞き出して直接連絡を取ろうとしたのだが、 これも留守番電話の自動応答で、 ことの概要とこちらの携帯番号を吹き込むことしかできなかった。
 彼の上司は、 そもそも責任は全面的に君にある、 と言って客の接待を続行することを告げ、 進展があってもなくても報告を入れろ、 と言ってゴルフに戻ってしまった。 取引先の客の方が心配していたくらいだ。
 しかし、 怒ったり悩んだりしている暇もなく救急隊員が担架を持ってやって来てくれ、 僕は付き添って救急車に同乗し、 病院にやって来た。 彼の上司が言うように、 とにかく僕に責任があることは間違いないわけだった。
 僕は、 意識を取り戻した彼に、 事情を説明したいと気がはやったのだが、 また看護婦に制された。
 今はまだ、 落ち着くまであまり話しかけないでください。 そう言われて、 僕は頷くしかなかった。
  2 深夜の病室にて
 看護婦が出て行き、 彼と二人きりになってしまうと、 これは率直に言ってかなり居心地がわるかった。
 彼は確かに意識が戻っていたが、 ぼんやりと斜め上の空間を (あるいは、 その先の天井の染みか何かを) 見詰めており、 僕のことは特に気にしていないみたいだった。 あるいはなにかを思い出すか、 考えるか、 していたのかも知れない。
 僕はもちろん、 何度か話しかけてみようか、 と思ったのだが、 何となく話しかけるタイミングを逸して、 ただ椅子に座っているのみになってしまった。 部屋は二人部屋だったが、 もう一つのベッドは空いていた。 だから、 看護婦は僕に使ってもよい、 と言ってくれたのだ。
 僕は思い出してそっと病室を出、 階段の踊り場で、 彼の上司に経過報告を入れた。 また、 キツイお小言を頂戴したが、 彼が意識を取り戻したことを伝えると、 明らかにほっとしたようで、 急に声のトーンが落ちた。 今日は抜けられない所用があり、 病院に行けないが、 明日は行く、 とのことだった。 続いて、 自分の会社にも電話を入れる。 しかし、 総務にはもう誰も残っていないようだった。
 携帯をポケットにしまい、 さて、 どうしたものか、 と考えた。 病室に戻ったら、 彼と少し話をしてみることにしよう。 無理のない範囲で。 しかし、 なんて言えばいいのだろう。
 部屋に戻ると、 初めて見る若い看護婦が、 「頭まだ、 痛みますぅ?」 と聞きながら、 頭をグルグル巻にしている包帯をゆるめて、 湿布薬らしきものを新しいものと取替え、 包帯を改めて巻直していた。 テキパキとして無駄のない動きだった。
「あ。 触らないでください。 腫れはしばらく残りますけど、 大丈夫ですよー。 レントゲンとCTを撮りましたけど、 頭蓋骨にも脳にも異常はないって先生が言っていましたから。 でも、 しばらく跡は痛むかもしれませんよ。 頭痛はありますか? 大丈夫?」
 看護婦は彼に微笑んだ。 何だか、 その微笑みは、 患者をそっくりガーゼに包んでしまうみたいにチャーミングで機能的だった。
 若い看護婦は、 僕を振り返ると、 口の端をわずかに持ち上げるようにして僕にも笑いかけた。 ベッドの脇にはごく控えめな量の病院食が用意してあった。 まだ、 手つかずだ。
「食事しますかー?」 という看護婦の問いかけに、 彼が首を振っている。
 看護婦は小首をかしげて彼を見て、 なにやら頷くと、 ベッドを整え直し、 「じゃ、 何かあったら呼んでくださいね」。
 笑顔を残して行ってしまった。
 さて。 また二人きりだ。
 彼に話をして、 謝らなくては。
 ベッドに横たわる彼は、 おそらく二十代後半。 やや細面で、 鼻の右側にある小さなホクロがアクセントの、 端正な顔立ちの男だった。 コンピュータ・プログラマーだということだが、 何かのスポーツ選手のように見えなくもない。
 僕は立ち上がって、 ゆっくりと彼に近づき、 見下ろすような感じになってやや決まり悪く思いながら、 頭を下げて挨拶した。
「あの、 ご気分はいかがですか」 馬鹿丁寧な口調になってしまう。
「悪くはありません……」 と、 彼はとりあえず、 といった感じで答えたけれど、 当然ながら声には戸惑いを含んでいた。 乾いた感じのする、 割に高い声だった。 喋ると僅かだが後頭部が痛む様子で、 「ただ、 何か頭がクラクラするんですけどね」 と、 付け加えた。
「そう、 ですか……」
 ちょっと冷や汗が出てくる。 彼はやはり、 医学的な説明を受けただけで、 その頭痛の原因については、 何も聞いていないし、 心当たりもないのだ。 さらに、 その原因をつくった人物が、 目の前にいることにも気づいてはいない。
 とにかく、 説明し、 謝ることが先決だ。
「この度は、 まったく申し訳もありません」 僕は頭を深く下げて言った。 頭を上げると、 彼はびっくりしてただ見上げている。 「私がとんでもない方向にボールを打ってしまって……。 本当に、 申し訳ありません」 僕はまた、 頭を下げた。
「あの、 つまり、 ええと……」 彼の戸惑いが深くなる。 「ぼくには、 何がどうなったのか……。 つまり、 あなたは、 ボールを、 打ったんですね……?」
 しまった。 肝心のゴルフという言葉が抜けている。 僕は一瞬言葉に詰まった。
「あの、 私たち、 ゴ、 ゴルフをしていまして……いや、 一緒にではなく、 私は、 隣のコースにいたのですが、 それで、 私の打ったボールが、 つまり、 あなたの頭に、 当たった、 というか……、 つまり当たりまして」 早口になって、 脈絡のない言い方になる。
 ゴルフだって……?
 彼の顔に、 一瞬そう書いてあるようにはっきりと言葉が浮かぶ。 続いて、
 思い出した! 
 という表情が浮かんだ。
 僕はほっとして、 それから本気で恥ずかしくなった。
「……何て珍しい話だ」 と、 彼がつぶやいた。 「それとも、 案外良くあることなんだろうか」
 そして、 この目の前の男が  つまり、 僕が  そのナイスショットを放った張本人に違いない。 と、 理解したことが彼の表情に現れた。
 彼の目がまじまじと僕を見詰めた。 居たたまれなかった。
 次の瞬間、 彼が爆笑し始めた。 もっとも、 笑うと痛いらしく、 笑いながら彼は、 悲鳴を上げて、 頭を押さえ、 笑い止めようとしたが、 うまくいかず、 しばらくベッドの上で身をよじって苦しそうに笑い続けた。
 僕は、 一緒に笑うわけにもいかなかった。
 それから彼は僕に質問し、 僕は答えた。
 救急車でゴルフ場の近くの大学病院に運び (つまり、 ここだ)、 検査の結果、 生命の危険や、 脳に損傷がないことがとりあえず判明し (もっとも、 若い医者から聞いた様々な可能性については黙っておいた)、 目覚めるのを待っていたのだ、 と。
 僕は、 一通り事情説明を終えてから、 名刺を渡し、 入院に関するすべての費用は負担させて頂きます、 と伝えた。
 彼は、 平静を保ったまま説明を聞いてくれ、 二三質問をしただけで納得した様子だった。
「うちの課長はどうしました?」 というのが、 その質問のうちのひとつだったけれど、 これは少々答えにくかった。 もっとも、 彼は初めから大体予想していたようで、 平然としていた。
 彼自身は、 接待ゴルフなど元々したくもなかった様子だ。 学生時代、 スポーツとしてやっていたゴルフの腕前が会社内で知られて以来、 接待となると上司からご指名がかかる、 という訳だったらしい。
「ゴルフ自体は好きなんですよ。 でも、 必ず負けなくてはいけないゴルフなんてね……。 こうやって、 ベッドに寝て、 中断できてありがたいくらいのものだ。 今後は、 断る口実にもできそうですしね」 と、 彼は言ったけれど、 僕はひたすら恐縮するばかりだった。
 連絡を取った方がいい人はいますか、 とやや微妙なことも確かめてみたが、 彼は無頓着な様子で、 病院にいることをすぐに知らせなくてはなけないような相手がいる訳ではない、 と言った。 父や母に知らせたところで必要のない心配をかけるだけだろう、 かえって誰にも連絡をとらないでくれて良かった、 と言うのだ。
 逆に、 彼は帰宅を勧めてくれた。
 いや、 今日はここで付き添わせて頂きたいと考えています、 と伝えると、 失礼だけれど、 見知らぬ他人に付き添われるというのも余り気分のよいものじゃない、 明日の昼までにまた来てもらえれば十分だから、 と言うのだった。 もし家が遠ければ、 近くで宿でも探したらどうです、 ここではロクに眠ることも出来ないですよ、 と。
 僕は彼のクールな応対に、 内心感心し始めていたし、 実際もう少しで彼の言う通りに、 帰宅しようかと思ったくらいだった。 けれど、 そういう訳にもいくまい。 やはり心配だから、 いや、 僕の責任としても必要なことだから、 残ります、 と改めて伝えた。
 あまり心配されても変な邪推をしたくなってくるなぁ……ぼく、 本当に大丈夫なんでしょうね、 と、 彼は笑って言ったけれど、 付き添うことは認めてくれた。
 僕らは、 当面話し合うべきことを話し終えると、 ふと黙り込んだ。 僕は、 ナイスショット以来、 何時間ぶりかでやっと緊張を解いている自分を見つけた。 そして、 腹が減っていることに気が付いた。 何しろずっと電話をかけたり救急車に乗ったり手続きをしたりしていたのだから、 当然夕食も食べていないのだ。 時計を見るともう午後九時をまわっている。
 彼を見ると、 彼も夕食を食べていない。
 僕の視線を辿っていたらしい彼も、 にっこりと頬笑むと、 冷え切った病院食って言うのもね、 と言った。
 そこで、 夜食を買いに行くことにした。 確か、 病院の前に、 コンビニエンス・ストアがあったはずだ。 たぶん、 怪我人に勝手に病院食以外のものを食べさせてはいけないのだろうし、 病室で食事をするのも好ましいことではないと見做されるかもしれないけれど、 彼はたっぷり寝たせいか、 いささか疲れの出てきた僕よりも元気そうに見えたし、 病室は他に患者もいないので、 迷惑をかけたりする畏れはなかったわけだし、 この際勘弁してもらいたいものだった。
 僕は病院を抜け出すと、 弁当とウーロン茶を二つずつ買ってきた。 僕らは肉や揚げ物のたくさん入ったその暖かい弁当を夢中で食べた。 彼もおなかが空いていたのだろう。 あれだけ食欲があれば大丈夫そうだ、 と思えてきた。 ごく普通の幕の内弁当が、 何だかとてもおいしかった。
 ようやく僕らは互いにくつろぐことが出来た。 誰かが、 あらゆる問題の九〇パーセントはお腹が一杯になれば解決する、 と言っていたけれど、 案外嘘じゃないのかも知れない。
 食後、 僕らは他にすることもなかったので雑談していた。 話してみると、 彼とは丁度十歳年が離れていた。 どんな仕事をしているのかを聞き、 たわいのない冗談を言っては笑った。 実際のところ、 他にどうすればいいだろう。 ともあれ、 彼はよく冗談を言っては笑った。 仕舞いに、 僕は自分が加害者であることを忘れそうになるくらいだった。 何だか考えてみるとおかしな話だが、 年の離れた友人同士のようでもあった。 後遺症でも残るようだと冗談ではすまないが、 彼がこのまま回復してくれれば、 この一夜のことも笑い話になりそうなくらいだった。 彼が話すソフトウェア業界の話はいろいろと興味深かったし、 ぼくも建築業界の内幕を少々、 多少オーバーな味付けをして彼に話したものだ。 話が一巡した頃にはもう十一時半になっていた。
 彼は、 ふと気付いたように、 もう寝ますか? と聞いてきた。 君こそ眠くはないのかい、 と聞くと、 彼は、 どうやら先ほど夜の分までたっぷり眠っちゃったみたいで少しも眠くはないんですよ、 と笑った。 でも、 本当を言うと、 ぼくはしばらく前から不眠症で、 眠くならないんです、 と付け加え、 ふと黙り込んだ。 そのせいか昼間ぼんやりしていることが多いんですね……。
 でなきゃ、 飛んできたボールぐらい、 気がつきそうなものですけれどね。
 そう言って彼は、 ひとしきりまた可笑しそうに笑っていたのだが (もちろん依然として、 僕は一緒になって笑うわけにはいかなかった)、 丁度電池が切れるようにして笑顔を切らして、 いつの間にか、 真面目な、 いや、 思い詰めた、 とでも言いたいような表情になっていたのだった。
「具合はいかがですか」 その時先程の若い看護婦が部屋に入ってきた。 彼の顔色を見て、 頭痛はありますか、 と聞き、 包帯の上から頭を触って何かを確かめるとにっこりとした。 相変わらず素敵な笑顔だったけれど、 心持ち疲れているみたいだった。 きっと、 働きづめなのだ。 彼女は、 ちらりと椅子の僕を見て一秒の三分の一ほど考え込んだみたいだったが、 もう一度彼を見て、 そろそろお休みくださいね、 と言ってまた微笑むと足早に病室を出ていった。 その間、 僕は何となく、 彼のことが気になっていた。 彼にはたぶん、 何か言いたいことがあるのだ、 と思った。
 僕たちには今夜、 たっぷり時間があったし、 何をどう話したところでいずれすぐに別れることがわかっている相手に向かって、 胸のうちに秘めていたことを喋ってみたい、 そんな気持ちが起きているのではないか  そう僕は直感していた。
 こんな状況で、 他人の打明け話などを聞くのは、 ややしんどいような気はした。 実際、 場違いですらあったかもしれない。 しかし、 彼の態度の中には、 僕が好感を持たざるを得ないような何かがあった。 まして、 その時の僕は加害者であり、 例え退屈な話であっても、 彼が話したければ、 一通り話を聞くぐらいは加害者の責務のひとつでもあっただろう。 だがそれ以上に、 彼の態度のどこかに、 話を聞きたくさせるものが確かに  例えこんな不思議な話だとは、 思いもしなかったのだとしても  あったのだ。
 彼がこの話を始めたのは、 だから丁度真夜中あたりからだったと思う。 消灯時間をとっくに過ぎていたから、 ぼくらは枕元の読書燈のみを点けていた。 ベッドの背を少し起こして、 くつろいでいる彼の姿は、 顔も体もその右側だけがくっきりと浮かび上がり、 あとの半身は病室の闇の中に半ば溶けていた。 頭に巻かれた包帯は痛々しかったが、 彼の目は輝いており、 ついさっきまでの冗談を飛ばしていた時とはすっかり違った、 静かでありながら微熱を含んでいる、 とでも言いたいようなトーンで語り始めていた。 彼は時として急に身を乗り出すかと思うと、 次の瞬間には気落ちしたようにベッドに沈み込んだ。 彼がこの話を特に上手く語った、 という訳ではないと思う。 彼はむしろ何か、 とてももどかしそうに何度も言い替えたり、 戻ったりしながらぼくに何かを伝えたがっていたのだ。 また何故、 彼がぼくにこの話をする気になったのかも、 考えてみると良くはわからない。 でもぼくは、 いつの間にか、 彼の話の内容に、 というよりは、 彼の話すその様子、 微妙に変化していく語りのトーンなどに魅かれて、 一心に聞き入っていたのだった。

つづく

2007-07-01
Copyright dozeu.net
Allrights reserved.

戻る