2004年11月に発行した小説集『土星の環』のコンテンツを
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  3 夜の虹
「どこからこの話を始めればいいのか、 よくわからないんです。 どうせ誰に話しても、 わかってはもらえない、 という気持ちもあるから。 だから、 誰にも話したことはないんですよ。 実際、 不思議な話なんだ。 ぼくは迷信深い人間じゃないと思う。 奇跡とか超能力も信じる方じゃないです。 と言って、 まぁ、 プログラマーではあるけれども、 サイエンスを盲信するタイプではないと思うしね。 ごく普通の常識で生きている人間だ、 ということですね……。
 でも、 そんな人間でも、 ごく稀に何かの偶然で、 そう、 今日も起こってしまったように、 在り得ないようなことの丁度行く先に  その通り道に  たまたま居た、 というようなことはあるのかも知れない。 いや、 これは別に皮肉じゃないんですよ、 ほんとに……。 上手く言えなくて恐縮だけれど、 ぼくにはどう言えばいいのかわからない……。
 とにかく、 起こった順に話してみようと思います。
 ぼくは、 さっきも言ったように、 法務省に用事があって霞が関にしばらく通っていたんです。 今回は一週間くらいかな。 大きなコンピュータが入って、 プログラムを組んだんですけど、 そのメンテナンスです。 法務省に行くのには地下鉄の千代田線を利用していて、 日比谷駅を降りて、 毎日日比谷公園の片隅を横切って霞が関の法務省に着く。 大体午後の五時とか六時ごろに行くんです。 担当者と簡単に打合せをして、 食事をして、 作業は夜です。 昼間はコンピュータを使っていますからね。 朝まで働いて、 すいているうちに電車に乗って、 通勤のサラリーマンの流れに逆らって帰ってきて寝ます。 いろいろな条件を与えてシミュレートして、 誤作動を見つけて、 プログラムを直すんです。 根気のいる仕事ですよ。 たぶん、 基本的に好きじゃなかったら出来ない。 でも最近は好きなのかどうか、 自分でもわからなくなってきたけれど……。
 ともかく、 それが起きたのは、 一か月ほど前の……水曜日です。 どうやら仕事が片付きそうで、 法務省に通う最後の日のことでした。
 ……でも、 多分ぼくは、 その前に夢の話をしておかなくてはいけないんじゃないかと思います。 その夢が、 これからお話することについての何かを、 確実に表わしている、 と言えるわけではないのです。 でも、 何の関係もないとは、 今のぼくには、 どうしても思えません。
 あの、 Tさんは、 オカルトとか、 信じる方ですか? 予知夢とか……。 ぼくにもよくはわからないのですが、 はっきりしていることが一つだけあります。 その夢は、 何度も繰り返しぼくにこう告げたのです。
 夢の中に何かを忘れてきている、 って。
 ぼくはこの半月ほどの間、 何度もこの夢を、 正確には、 同じこの夢の微妙に異なるバリエーションを、 見続けていたのです。
 夢のストーリーはいつも少しずつ違うし、 目覚めたときには断片的にしか覚えていないことが多いのです。 ぼくは、 夢の中である大切なものを持っていて、 何かと戦い、 あるいは逃れ、 その夢から還ってくる途中で、 いよいよ目覚めようとする時になって、 その大切な何かを夢の中に置き忘れてきたことに気付くのです。 ぼくはしばしば混乱し、 いかにも未整理な雑然とした気持ちで、 ひどい時には何か取り返しのつかないことをした後のような気持ちで目を覚ますんです。 その夢の内容が何を意味するのか、 ぼくにはわかりません。 その大切なものがなんなのか、 具体的に話すこともとても難しい。 ほとんど、 どう言っていいものかわかりません。 それは言わば、 企画書か設計図のようなもの、 です。 何かの、 ぼくらにとって、 ぼくらの世界にとって、 大切であるはずの、 プログラムのようなもの、 いや、 プランのようなもの。 その中身を見たことはないのです。 でも、 何故だか、 それがとても大切なものであることはわかっている、 知っているのです。 それを持ち帰らなくてはならない。 それもわかっている。 不思議な話だけれど、 夢の中で、 この夢から現実の世界の中に、 この企画書であり設計図であり何物かのプランであるものを持ち帰らなければいけない、 と考えている。 それはただ夢から目を覚ます、 というのではないのです。 ただ目を覚ますというのでは、 「それ」 は持ち帰れない。 消えてしまうんです。
 何て言えばいいのか。 言わば、 目覚めたままで、 夢の中から、 この現実の中に移動しなければならない。 そのときだけ、 「それ」 は変質を被らないでこの世界に持ち出すことが出来る。 その道を探す、 それがぼくの夢の中での役割なんです。 そうです。 それが、 ぼくがしなくてはいけないことでした。 でも、 一度として、 それに成功したことはありません。
 たぶん、 何を言おうとしているのか、 わからないと思います。 自分でも、 はっきりとわかっているとは言えない。 なんであんな夢を見続けたのか……。
 申し訳ないとは思うけれども、 これ以上うまく言えそうにありません……。 だから、 その先に起こったことを話すことにしましょう。
 先程も言ったように、 半月ほども断続的にそんな夢を見続けていたのです。 それから先週の水曜日がやってきました。 その時、 ぼくは昼夜が逆転するような毎日を送っていて、 体調を崩しかけていました。 体がだるくて、 この仕事が終わったら休暇を取らなくては、 と考えていました。
 その時、 ぼくは少し酔っていました。 それは確かです。 でも、 物事の見境がつかなくなるほどじゃなかった。 法務省側の担当者の人が、 どうせなら金曜までで区切りをつけましょうと、 残業までして付き合ってくれたんです。 その人がいるから仕事がはかどるというものでもなかったんですけれど、 その日は午後三時に出向いて、 御蔭さまで九時すぎにはどうやら方がつきました。 泊まらずにすむことにほっとしたものです。 もうそのフロアにはぼくたち以外誰も残っておらず、 その人はどこからともなくブランデーをひと瓶出して来ました。 三分の一も残っていなかったんですけれどね。 会議室でよかったら軽く一杯やりましょう、 と言うのです。 ぼくは少しびっくりしたけれど、 仕事が終わって確かに一杯やりたい気持ちもあって、 その人の気持ちは嬉しかったですね。 その人って、 ぼくのオヤジさんより少し若いくらいですけどね。 ぼくらは誰かが出張したお土産で買ってきたという、 仙台の笹蒲鉾をつまみに飲み始めました。 といっても、 どちらも三十分程度のつもりでした。 本当に四十分ほど気持ち良く飲んで、 きみは若いのに真面目だね、 なんて言われたりしました。 でも、 ま、 そんなに悪い人じゃなかったな。 ものわかりもいい方でしたよ。 マニアックなプログレ系のレコードを集めている、 と言っていました。 イギリスからインターネットで注文して取り寄せるんですって。 それから我々は部屋を出ました。 庁舎の出口で礼を言ってその人とは別れて、 ぼくはいつものように日比谷駅を目指して歩き始めました。 多分、 午後十時を少しまわっていたと思います。
 それでも確かに、 少し酔いがまわっていたのかな。 それに仕事が終わった開放感もあったのでしょう。 ぼくは夜の日比谷公園に入り込むと、 真っすぐに抜ける代わりに、 入って少し歩くと右側の小山を背に見えてくる 「開園当時の水飲み」 の前に立ち止まり、 顔を近付けて解説を読みました。 開園は明治三十六年と書いてありましたが、 ピンと来ませんでした。 馬も水を飲めるようにと設計されているというのがおもしろかったですけどね。 それからぼくはまた、 駅方向にふらふらと歩いて行ったのですが、 山とテニスコートの間の緩やかな登り道が不意に目に入ってきた時、 我知らず右折してその道に入ったのです。 そんなことは、 ついぞしようと思ったことがなかったのに、 です。
 正直に言って、 何故そうしたのかはわかりません。 酔いを醒まそうとしたのかもしれない。 ぼくは石段を上がりながら、 自分の気紛れを可笑しく思っていたと思います。 毎日通っていたのに、 大体そこに道があることさえほとんど意識していなくて、 それが不意に曲がってしまった……。 石段を上がらないと見通せないその道の奥を、 急に見たくなった……。 そんな気もします。 ぼくはその時、 気がつくと石段を上り終わっていました。 そのまま歩き出すと、 耳を覆っていた車の騒音が遠のいていきました。 皇居と日比谷公園の間を走っている晴海通りは真夜中でも相当な交通量があるんですけど、 ちょっと公園の内側に入り込んだ途端、 嘘のように、 どこか別世界の音のように遠くなって、 辺りは東京のど真中であることを忘れそうに静かで、 何か不思議に思ったものです。
 ぼくは日比谷公園の内部を知っているようでいて、 必ずしも知ってはいなかったのだ、 ということに気が付きました。 以前にも、 大噴水の前で人と待合せをしたり、 日比谷図書館に調べ物のために行ったり、 そういえば、 大学のクラブの創立二十周年の集まりは公園の中央にある松本楼でやったりもしていて、 公園内部の様子を大体は知っているつもりでした。 でも、 そうでもなかった訳です。
 これは、 後で調べたのですが、 公園の広さはざっと十六万平方メートルです。 ほぼ長方形をしていて、 短い方の一辺でも約三百メートル。 長い方は五百メートルはあります。 ぼくはこのところ毎日、 その短い方の三百メートル足らずを、 それもその片隅を横過っていたに過ぎなかったのです。
 辺りには明らかに誰もいなくて、 暗くって、 音はと言えば、 遠くで依然として車の走る響きが聴こえる他は、 ぼく自身が湿った土を踏み締める際の僅かな音、 落ち葉を踏んだ際のパリッという小動物が木の実をかじるような音くらい。 五月になったばかりの若葉の匂いと、 その匂いを運ぶ微風……。
 ぼくが歩いていた道の左側は、 植木が植えてあってその後は少し傾斜していて、 網で区切られたテニスコートに続いていました。 反対側は、 小高く盛り上がった小山になっていて、 その山を下ってくるところは林になって続いています。
 道には、 適当な間隔でベンチがありました。 何の気無しに三つ目のベンチに腰を下ろしてみました。 正面の木々の頭越しに、 有楽町のツインタワー・ビルや帝国ホテルが目に入りました。 でも、 ここは本当に静かです。 外灯もなくて、 薄闇の中に道も林も沈んでいます。 煙草を探しましたがありません。 誰かが煙草なんて大人のおしゃぶりさ、 と言っていたことを思い出しました。 すると、 急に軽い怒りが沸き上がってきました。
 現実的なことがいろいろと思い出されてきたんです。 仕事のこととか、 女の子のこととか、 いろいろです。 ぼくだって毎日楽しいことばかりじゃありません。 わかり切ったようなことや、 楽しいふりをして調子を合わせている類のことが多いんです。 本当に楽しいことって、 そう簡単に生み出せやしないって、 わかっているんです。 世の中って、 もともとそういうもんじゃありませんか? 運や努力ももちろん大切ですけど、 ほんのひと握りの才能があって金を好きに動かして世の中のアイテムを自由に取り扱える奴と、 大部分のそうじゃない奴がいるんです。 いろいろ文句を言う奴もいるけれど、 わかってないんですよ。 ぼくなんかは、 そうですね、 好きな音楽聴いて、 普通の子と慎ましくデートする。 それで十分、 満足ですよ……。 だって、 そうでしょう?
 ええと、 話が逸れちゃいましたね。 今のは忘れてください……。
 それで、 つまり……。
 ぼくはしばらくの間、 一人で誰もいない公園のベンチに腰掛けたまま、 突然の激しい怒りにずっと耐えていたんです。 仕舞いに自分が何故、 こんなに腹をたてているのか、 不思議になったくらいです。
 そして……人間って不思議ですよね。 ふと、 あの夢のことを思い出したんです。 ぼくは、 夢の中に忘れ物をしてきてしまった……という、 あの夢です。 何故、 あんな夢を急に思い出したのか、 自分でもわからなくて……。
 かなり夜も深けてはいたけれども、 日比谷と言えば東京のど真中です。 それなのに、 ここでこうしてベンチに座っていると、 まるで別世界にいるようでした。 木々の頭の上に遠くビルが山の頂のように連なっているのを見ていると、 何だか非・現実感がやってくるんです。 あの下には、 たくさんの人間がいてお酒を飲んだり大声で喋ったりしているんだ。 そして、 これが毎日のように繰り返されていく……。
 ぼくは、 怒りを忘れていました。
 何でかわかりません。 心が鎮まっていたんです。
 でも、 その代わりにぼくは、 何て言うのか、 畏れの気持ちに捕らえられていたのです。 何かに、 たぶん、 怯えていたのです。 それと、 なんだか、 哀しかった。 ……
 急に震えがきて、 我に返るような感じでした。 外灯があるにはありましたが、 物陰から誰かが出てきそうな、 そんな気持ちもありましたし、 それだけではなく、 何て言うのだろう……何て言うのかな……。 上手く言えません。
 とにかくぼくは、 引き返した方がいい、 と思いました。 そして、 立ち上がったのですが、 足はさらに道の奥に向いていました。 頭では、 引き返そう、 と確かに考えていたのです。 でもぼくは、 自分がそうしないことをその時良く知っていました。
 その道をゆっくりと歩いて行くと前方には金網が左右に広がっていて、 ただ正面はアーチ型に通り抜けられるように開いていました。 金網の内側は思いがけず広場になっていています。 その空間に魅かれて入っていきました。
 外灯の下にブランコなど子供のための施設がいつくか並んでいるのが見えました。 所どころに木も植えられていてベンチらしきものもあります。 でも全体としては雑然とした印象の大きな広場で、 いっそ何もないほうがずっといいのに、 と思ったことを覚えています。 ゆっくりと歩く途中で、 右手には大きく合同庁舎が浮かび上がっているのに気がつきました。 それも意外な近さにあるのです。 ぼくは少し混乱して、 自分が少し滑稽にも思えました。
 月明かりのもとで、 広場を横切っていけば反対側に出口があるように見えました。 果たしてこちらにも金網の切れ目があり、 広場を出ることが出来ました。 そして、 そのまま歩いていくと、 どうやら少し広い道が横切っていて、 その道に沿って歩いていくと右前方に暖かな明かりを灯した建物があるのが木々の間から見えました。 あれは確か、 松本楼のはずです。 明らかに営業は終えている様子で、 三階の明かりは消え、 二階では窓越しにボーイが片付けをしている様子が垣間見えました。 ぼくは少し余裕を取り戻し、 立ち止まってなんとなくその光景を眺めていました。
 ぼくは、 その建物の手前を右に逸れて林の中の道を歩いていきました。 これも、 ただなんとなくそうしたのです。 松本楼の方に行けば、 ぼくも知っている図書館や、 大噴水の前に出られるということはわかっていたのですが。
 ……でも、 ぼくはそうしませんでした。 ……しなかったのです。
 明かるい外灯のある三叉路に、 また別の 「開園当時の水飲み」 がありました。 白く塗られていて、 何だか場違いな感じです。 そこを右にさらに進むと、 池が見えてきました。 池のほぼ中央に、 何かの鳥の  多分鶴でしょうが  噴水があるのが見えました。 あたりは静かで、 水の落ちるさして大きくもない音だけが響いています。
 ここは、 明らかに初めての場所でした。
 池はさほど大きくもありません。 周囲には周回路があって、 池の東側にベンチがいくつか置いてあります。 そのベンチ一つひとつには、 ほとんど動こうともしない恋人たちが、 冬のカモメのようにひとつになって寄り添っています。 何故冬のカモメだなんて思ったのか、 自分でもよくわかりませんでしたけど。
 鶴は翼を広げ、 天を向いて、 くちばしの先から絶え間なく水を噴き上げていました。 ぼくは、 左端に空いているベンチを見つけて腰を下しました。
 日比谷公園内に、 こんなに落ち着ける場所があるとは思いもしませんでした。 要所要所に建つ外灯がこの場所を特別な場所のように照らしていました。 木々がこの小さな池を囲んでいてオアシスのように見えました。 そうしてぼんやりその光景を眺めている内に、 ぼくは自分がすごく疲れていることに気がついたんです。 スポーツで体を動かしたときや何かとはまったく違う疲れです。 体の深いところで、 神経の中枢が硬張ってカチカチになって、 動かなくなってしまったような感じ。 そして末端はボロボロになっている……。 上手く言えませんけれど、 テレビゲームで消耗する感じに似ているかもしれません。 ぼくは、 これ以上こんな風に生きて行く訳にはいかない、 と自分に言い聞かせていました。 「こんな風」 というのがどんな風で、 その先どうしたらいいのかわかりませんでしたが、 先程の行き場のない怒りが甦って来るようでもありました。 一方でお酒の酔いが戻って来る感じもあって、 うつらうつらしそうにもなりました。 それでいて体の芯には得体の知れない疲れの塊が固く硬張っていて、 とても眠れそうにない……。 ぼくは疲れの塊と眠気の間に宙吊りになって訳もわからずに怒っている……。 何に対して? ぼくはまた、 夢のことを思い出していました。 ぼんやりとして、 考えることもなく夢の光景を反すうしていました。 そんな風に、 ぼくは池を前にしてベンチにぐったり寄りかかってぼんやり前を眺めていたのです。
 ふと、 鶴の噴水に、 見覚えがあるような気がしてきました。 ぼんやりと記憶が甦って来るような感じです。 どこで見たのだろうなと、 思い巡らせている時、 コツンと頭をぶつけるような感じで、 ぼくはこの場所に来たことがある、 と思い出しました。
 ぼくは愕然としたまま、 我知らず立ち上がって、 池の淵まで行きました。 真っ黒に見える水の表面を透して、 浅いはずの池の底を見通そうとしました。
 そこに、 何かがあるはずだ、 という気がしたのです。 忘れていた、 何かが。
 ぼくは靴が濡れるのを気にしながらも、 右足をゆっくりと池に浸けました。 足は二十センチほど潜って、 どうやら池の底を頼りなげに踏み締めました。 袖を捲って水底に指先が触れるほど右腕を延ばしました。 指先に何かが触れました。
 右足が滑り、 一気に深みに足を取られ、 体が傾き、 支えられずに頭から池に飛び込んでいって、 一瞬深く潜る……無我夢中で立ち上がったのですが、 びしょぬれで、 指先に触ったはずのものも、 どこへいったのか……。
 やれやれ。 ぼくは何をやっているんだ……。
 自分に呆れながらもとにかく池から出たものでした。 ベンチに戻って腰を下ろし、 ポケットの中から半分湿ったハンケチを取り出して、 顔を拭き、 やはり湿ったティッシュで鼻をかんで……。
 でも、 そうしながらも考えない訳にはいきませんでした。
 ぼくは、 夢の中で、 この場所に来たことがあったのだ……。 それは、 どうしても疑えない。 あの池と鶴の噴水……。 しかし、 そんな不思議なことが?
 ぼくは一瞬、 目眩を覚えました。
 何て言うか、 ここがどこなのか、 わからなくなったのです。 現実なのか、 それとも、 夢の中なのか……。 確実なことは何一つないような気がしました。 ぼくはその時、 目の前の光景を見ているようでいて、 見ていなかったのかも知れません。
 鶴の噴水の上に、 小さな、 でも鮮やかな虹がかかっていました。 とても綺麗でした。
 ぼくは、 虹が七色だというのは本当だろうか、 などとぼんやり考えました。 これは、 ちゃんと観察する良い機会かも知れない……。
 それからやっと、 夜中に虹が見えるなんてことがあるだろうか、 という疑問がゆっくりと形を成してきました。
 ぼくはふっと怖くなり、 訳も考えず真上を見上げました。
 夜空いっぱいに虹が、 というより、 オーロラのようなものが、 輝いていました。
 何の音もありません。 それはただ、 ゆらめきながら、 端の方から少しずつ色を変えていくのです。 しかも、 ぼくの上に覆いかぶさるほどに大きいのです。
 ぼくは、 目を離すことも出来ずに見上げていました。
 もう、 夢だとか現実だとか考えることも出来ない。 頭の芯が痺れているような感じなのです。
 それが、 ゆっくりと薄れていくまで、 ぼくはただそれを見上げていました。
 ふと、 ベンチの恋人たちもこれを見ただろうか、 と気になって視線を落して、 ぼくはまた目眩を感じました。
 ふらふらと立ち上がって辺りを見回しました。
 彼らの姿がありませんでした。 誰もいないのです。
 それだけではなく、 生い茂っていたはずの木々や草がすっかりまばらになっている。 ベンチの位置がずいぶん違う。 いや、 ベンチそのものが違う。 外灯が見慣れないものと代わっている。 池はあり、 地形そのものが違うという訳ではないのに、 一瞬前とはまるで別の場所のようだ。
 いや、 鶴の噴水は今も水を吹き上げている……。
 ぼくはメーテルリンクのあの有名な戯曲を思い出していました。 帽子に嵌め込んだダイヤモンドを回すと同じ場所がすっかり違って見えて来る……。
 ぼくは、 おわかりだと思いますけれど、 夢を見ているような気持ちで、 いや、 半分以上これは夢に違いないと思いながら、 ふらふらと歩き始めました。
 同時に、 これは何かまったく違ったことなんだ、 という確信がやって来ました。 これは、 今まで経験したどんなこととも違うのです。 わかりますか?
 空気さえも違う。 オゾンが多いような感じです。 木は植えられて間がない若木ばかりのようです。 ぼくはとにかく、 見知っているものがあるはずの場所、 を目指してつつじが咲き乱れる小さな丘を駆け足で登りました。 頂上まで登ってそのまま駆け降りながら、 ぼくは目にしているものが信じられませんでした。
 丘を降り切った先は、 位置的には確かに花壇や大噴水があるはずの広場です。 月明かりと、 いくつかの外灯の明かりのもとに青白く浮かび上がったそこにはしかし、 花壇も噴水もありませんでした。 ただ、 ガランとした大きな広場になっているだけです。 ぼくは立ち止まってしまい、 それから、 頼りない足取りでその広場の中央に歩み出して行きました。 右手に見えるはずの日比谷公会堂は影も形もありません。 ここなら運動会も出来そうだぞ、 ぼんやりとそう思ったとき、 足元に確かにトラックが引いてあるのに気がつきました。 トラックの内側は芝生になっています。 本当に運動場になっているのでした。
 これは、 何なのだろう。 ここは日比谷公園ではないのだろうか。
 ぼくは、 月が煌々と輝いている夜空を見上げました。 見たこともないほどに真っ暗な夜空でした。 ぼくは運動場の中央に立って辺りを見回しました。
 有楽町のビル群は、 どこだ?
 前方の柵に近寄って公園の外を見ようとして、 足が竦んでいるのに初めて気がつきました。 ぼくは恐れていたのです。 ぼくは、 その時初めて怖い、 と思いました。
 ここはどこなんだ、 とぼくはまた思いました。
 力が抜けてしゃがみ込んでしまいそうでした。
 必死の思いで竦んだ足を前に出して一歩ずつ柵に近づき、 ようやく鋳鉄製の凝った柵に手を掛けて外を覗き見ました。 明らかに舗装もされていない大通りの向う側には、 大きな門のある屋敷があり、 僅かな明かりのもとにそれが古い造りの洋館であることが認められました。 いや、 正確には古い造りというより、 新しく造られたばかりの古いスタイルの洋館、 とでも言った方がいいように見えました。 左隣にもホテルらしき建物がありました。 格式のある建物でしたが、 いかにも 「洋風」 というような、 それ自体がスタイルとして古風であるような、 しかし出来としては妙に真新しい建物なのでした。 さらに異様だったのは、 その隣の建物は塀に囲まれた純日本風の家屋で、 それらを含めて三、 四階くらいの建物が精々で、 有楽町から銀座にかけてのビルの連なりはやはりどこにも見当りませんでした。
 ぼくは、 長いことその光景に見入ったままそこから動くことが出来ませんでした。
 本当のところぼくは、 ここがどこなのかにぼんやりと気付き始めていたのです。
 ホテルの玄関から光が漏れ、 人影が数人出てきました。 洋装の婦人と紋付袴の男性、 見送りの者もいるようです。 彼らが人力車に乗り込むのが見えました。 それはどう見ても人力車でした。 彼らの姿はすぐに闇に消えてしまい、 ホテルの玄関の扉も閉まってしまい、 辺りはまた暗くなりましたが、 あれは幻ではありませんでした。
 ぼくは柵を辿って左に左に歩いていき、 公園の外側に開いている広い門まで来ました。 人通りはありません。
 ぼくは公園の外に出るのをためらいました。 公園の内側を振り返えると、 広い空間と多くの外灯、 丈の低い植えられたばかりのような木々や草、 小高い丘などが少し湿っぽい夜の外気の中に沈んで見えました。 あれは松本楼でしょうか。 いくぶん小さくて形も違うシルエットが、 しかしぼくの知っている松本楼と同じ場所にあるのが見えました。 小音楽堂があるはずのあたりは、 何かの工事の途中らしいシルエットが見えるだけです。
 前を見ると消え去りもせずにあのホテルが目に入ります。
 これは夢に違いない。
 ぼくはそう思おうとしました。 それ以外に説明のつけようがなかったからです。 でもその一方で、 ここを一歩でも踏み越えてしまえば、 もう元の世界とのつながりが切れてしまうような、 そんな気がしたのです。 もし、 ぼくが先程から考えはじめているように、 ここが本当に過去の日比谷公園であるならば、 ぼくは二度と元の、 ぼくにとってのいまに還れなくなるのかも知れない……。
 SFを地でいく荒唐無稽さではあるけれど、 ここが、 もし、過去の日比谷公園なのだとしたら、 当然、 ぼくが今見ているのは、 過去の日比谷の一帯だということになる。 つまり、 ここから歩き出せば、 たぶん、 明治だか、 大正時代あたりの過去の日本に歩み入っていくことになるのじゃないか……。
 その瞬間、 ぼくは今までに一度も経験したこともなかったほどの……何て言っていいのか、憧れのような気持ち、 にとても強く掴まれている自分を見つけました。 本当にどう言えばいいのか……。 以前、 大きなダムの上を歩いたことがあるのです……。 その時、 足元の下を大きくえぐれてカーブしているダムの壁と、 水のとてつもない重さに拮抗するその力を感じながら、 ただ淵を歩いているだけで、 壁のえぐれた何もない外側の方に、 ものすごい力で引っ張られるのを感じたのです。 いっそのこと、 自分から飛び込んでしまいたいような気持ち……。何もない巨大な空間に呑み込まれてしまいたい……そんな体験を、 したのですが……。
 あれに似ている。 でも違う。 何倍もその憧れが強いだけじゃない。 きっと、 たぶん、 ぼくの体の中心にも、 カラッポの、何もない空間があって、 それが激しくアチラ側の世界を求め引き寄せているのに違いない……。
 そう。 ぼくは、 どうしても行きたかったのです。 コチラ側のものを総て捨ててもいいと思うほどに……。
 それはもちろん、 冷静に考えてのことなんかじゃ、 ない。 理屈にあわない夢のような話の中の馬鹿な決断に過ぎないのだろうけど、 でもぼくは、 その致命的な力に、 アチラの世界に憧れる力に、 とても勝てそうになかった。 もう、 その一瞬にも一線を踏み越えようとしていたんです。
 でも、 まさにその瞬間でした。
 トゥルルル……トゥルルルル……。
 携帯電話のコール音でした。
 冷や汗がどっと噴きだして、 金縛りにあったみたいに動けなくなりました。
 どうにか胸ポケットから電話を取り出しました。
「もしもし、 トシオォ? なんで電話くれないのよぉ。 あたし待ちくたびれちゃった。 ……ねぇ、 聞いてるぅ?」 ……間違い電話だ。
 世界がぐるんと、 大きく回転しました。 そして……。
 霞みのかかった目に焦点が合ってくると、 ようやくひとつの像が浮かび上がって……。
 鶴が天に向かって水を噴き上げていました。
 ぼくはベンチに腰掛けていて、 しばらくの間ぼんやりとしていました。 眠っていたみたいな感じでした。 たぶん、 眠っていたのでしょう。 ちょうど夢の中の世界から、 こちらの世界に目覚める  移行する  時のように、 夢か現かわからないような、 そんな時間が束の間通り過ぎていきました。
 まだ、 頭の半分は、 向う側にいるみたいです。
 ぼくは、 恐る恐る着ている服の様子を調べてみました。 どこも汚れていず、 きれいに乾いていました。
 まだ抱き合っているカップルがいました。 霞が関のビル群が見えました。 時計を見ると十一時半を回っています。 急がないと終電が間にあいません。
 ぼくは、 立ち上がろうとしました。 その時、 コトンと音がして何かが足元に落ちました。 しかし、 それらしきものは何もありませんでした。 あるいは、 暗くてベンチの蔭になって見えなかったのかも知れません。
《もう、 二度と戻ってはこないだろう》
 ぼくは突然そう思いました。
《行って、 戻ってくる唯一のチャンスだったのに》
 それから、 とにかく立ち上がろうとしたのです。
 でも、 立ち上がる代わりに、 身を二つに折って、 地面にうずくまってしまいました。

つづく

2007-07-01
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