2004年11月に発行した小説集『土星の環』のコンテンツを
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  氷の架け橋

 先日、 十年間勤めた会社を辞めた。
 その少し前、 仕事の上でひとつ致命的と言っていい失敗をした。 他にも散発的にしなくてもよいミスをした。 仕事に意欲がわかなくなっていた。
 心当たりはあった。 心身ともに今の仕事、 今の職場環境に拒否反応を示しつつあった。 予兆は以前からあったのだ。 いや、 ずっと以前から考えていたことなのだ。 ある意味で、 会社に勤め始めたその日から、 いつかはこの日が来るという予感めいたものがあった。
 もっとも、 会社で与えられた仕事には、 それなりに満足していた。 仕事にのめり込んだ時期もあったし、 仲間に恵まれていることを実感し、 感謝したこともあった。 しかし、 我が儘といわれようと何だろうと、 今ここにいることにはずっと仮住まいの感覚があった。 そして、 いつ頃からかその感覚は僕を苦しめるようになっていた。 与えられる仕事をこなすことが苦痛になってきていた。 窮屈なコインロッカーに閉じこめられているイタチみたいな気分だった。
 僕は独立を考えていた。
 誰かに雇われるのはもう止そう。
 独立し、 自分で仕事を興す。
 僕は呪文をかけるように、 何度もそう自分自身に言い聞かせたものだ。 追い詰められた気持ちもあった。 正直なところ、 誰に話しても無謀だと言われるような話なのかも知れない。 だから、 事前に話したのは数名の友人だけだった。 誰も止めはしなかった。 が、 勧めもしなかった。 それはそうだ。 要するに、 僕自身の人生の問題なのだ。
 僕にできることは、 自分のヴィジョンをしっかりと持ち、 実現するまでねばり強く頑張り抜く。 そういうことだ。
 ただ、 それが一種の自営業である以上、 今までの生活にはないリスクをも背負い込むことになる。 何より、 自分で自活する、 ということが本当には分かっていない、 ということが問題だった。 どんな状況になっても、 自分の力で生きていく、 というような力が自分にはあるのか。
 そう正面切って考え始めると、 不安が込み上げてくる。
 まして今の僕は独りではない。 二本のレールの上を機関車が走っている以上、 独りの意志で、 その内の一本が勝手な方向を目指すわけには行かない。
 三十半ばという年齢では、 ただでさえ、 軌道修正は困難なのである。 しかも、 努力はもちろんのこと、 最低限の才能と運に恵まれていなければ、 明日の食費を確保できるかどうかさえ怪しい。 実際に決断を下すまでの三か月間、 僕は明け方悪い予感と共に目を覚まし、 薄闇の中で、 自分がしようとしていることは何もかも馬鹿げた世迷言だ、 という自分自身の内なる声と闘わねばならなかった。 密かに退職金の計算をし、 独立後の仕事について調べ、 プランの現実性について一喜一憂し、 失業保険について調べた。 ある日はすぐにでも辞めよう、 と思い強く決意した。 翌日は辞めてどうなる、 と思い直した。
 ある時点まで僕の決意は、 哀しいかな、 風に舞う木の葉のように頼りないものだった。
 だから、 あの失敗は起こるべくして起きたと言ってもいいのかも知れない (恐ろしく無責任な言い方になるけれども)。 その失敗が、 しかし、 最終的に僕の背中を蹴り飛ばした。 後戻りのできない地点まで。
 失敗の後始末に一日中飛び回って、 挙げ句普段からどうしても反目し会う羽目になる総務課の課長補佐に言いたくもない言い訳をし、 怒鳴り合いまで演じて、 へとへとに疲れ切って帰った夜、 僕は、 それにもかかわらず明け方に目覚めてしまい、 天窓から入る薄明かりの中で横に寝ている妻の寝顔につくづく見入ってしまった。 不思議に、 彼女の顔は昼間よりも雄弁に、 僕の思いにケチをつけたり、 励ましてくれたり、 何か苦しんでいるとさえ見えてくるのだった。 それなりに苦労して維持してきた自分たちの生活を今ゴミ箱に捨てようとしている、 そんな気になって眠れなかった。
 妻にプランを白状したのは、 その翌々日の日曜の夜ことだ。
 ダイニングルームでテレビを見ていたのだが、 妻の方はともかく、 僕は上の空だった。 そろそろ寝ようか、 と言うときになってようやく言い出すことが出来た。 話が進むほどに彼女の顔が紅潮し、 今にも激しい口調で喋り始めそうにみえた。 僕は冷や汗をかきながら必死に言い募ったものだ。
 欲目なしに言って、 彼女は自分を常にクールに保とうと努めはする (そのことは、 百パーセント認める)。 しかし、 あるポイントを越えると、 彼女の世界の中でリクツの占める比重が急速に軽くなる。 そもそもその世界にリクツなんてものが存在したのかどうか、 疑わしくなるほどだ。 突然、 感情が何よりも大切なものになるのだ。
 そうなったら、 まず、 僕には打つ手がない。
 百円ショップで売っているビニールの雨傘にすがって、 暴風雨に耐えるようなものだ。 純粋に経験則として言って。
 しかし実際には、 彼女はついに終わりまで一言も口を挟まずに聞き、 その後も長い間黙ったまま、 「おもしろくもない冗談いわないでよね」 といった表情のまま口を開かなかった。 不意に立ち上がるので身構えると、 キッチンに行き、 自分でブラックコーヒーを入れ、 黙ったまま飲むばかりだった。 僕はもう何もいえず、 次第に重くなる沈黙にじっと耐えていた。 彼女は無言のまま僕の顔を見もしないでじっと何か考えていた。 やがて、 彼女は椅子に座って、 部屋のさして高くもない天井を見上げ、 長いため息をついた。 それから、 突然怒ったように事務的な側面から問題点を三つ指摘した。 ひとつはかなり的はずれだったが、 後のふたつはもっともな意見だった。 中のひとつは実際僕のプラン全体を躓かせかねないものだった。 今度は僕が床に目を落としてため息をつく番だった。 それに彼女は確かに平静を保っていた。 感情的な部分はとりあえずカッコに入れておくことができるのだ (正直に言って、 僕はそのことに一番驚いていた)。
 彼女にはこんなことができるのだ。
 ただ、 時々忘れた頃になって揺り返しが来たりする可能性は、 実際かなり高いような気がするけれども (文句は言えない)。
 そして、 僕は彼女が肝心なときには、 今までも不思議に平静を保つことができる女性だったことを (遅ればせながら) 思い出していた。
 もしかすると、 そこが一番まずい点だったのではないか。
 そう。
 僕は独り自分の夢を追いかけようとしていたのだ。 そうだ。 そこが一番まずい。 致命的なほど。
 僕はうなだれた。 自尊心が傷ついていた。 悔しさと怒りが不意に湧き上がってきた。 男の俺の言うことが聞けないのか! とかなんとか、 怒鳴ってプライドを保てたらいいのに、 と心密かに思った。
 しかし、 妻には妻の仕事があり、 彼女には彼女の思い描くプランがあった。 それを知らないわけではむろんなく、 それでいて自分のプランはほのめかす程度のことしかせずに黙っていたのだ。
 言い訳のしようもない。
 もっと早く言うべきだったのだ。 一日延ばしにしていたのは、 もっと確実な見通しを得てから話したかったからだし、 確実な見通しなど得られる見込みもなかったのにこだわったのは、 彼女に拒絶されるのが何よりも怖かったからだ。 そう、 それ以外に理由なんかあるはずもない。
 つまり、 僕は妻に甘えようとしていたのだ。
 二本のレールの向きが違い始めれば、 列車は脱線するしかない。
 僕としてはもちろん、 脱線など考えたくもなかった。 僕にできることは妻に謝ることしかないように思えた。 できるだけ正直な気持ちをありのままに述べる仕方で。
 考えようによっては、 これ自体甘えた居直りなのかも知れなかった。 それでも、 自分のプランを是非とも諦めずに実現したかったし、 彼女を説得したかった。 彼女の承認は何よりも大切だった。 いや、 彼女に応援して欲しかったのだ。 彼女の支えなしにやっていけと言われたら、 目の前が真っ暗になってしまう。
 昔の自分から見たら、 考えられないような粘り腰で僕は妻の説得に当たった。 何というか、 妻の言い分はもちろんできる限り聞いたし、 できそうなことは安請け合いでも引き受けて露骨に機嫌を取りもした。 肩も揉んだし、 脚はマッサージした。 近いうちに温泉旅行に連れて行くことも確約した。 一日の終わりに彼女の機嫌が良く、 許してくれさえすれば、 いつもの十倍くらい丁寧に熱心に彼女を抱いた。 彼女の好きなことは総て (と言うのは嘘で、 可能な限り) 先回りして叶えるように努めた。 もっとも、 彼女は、 ふん、 というような態度はほとんど崩さなかったのだけれど。 その辺りは敵ながら (?) 天晴れなんだ。
 そして僕はもちろん、 僕の計画から拓ける未来を力説した。 今よりきっと何もかも良くなると、 まぁ、 ほとんど根拠もなく断言したりした。 それにもう、 やけだから全部言ってしまうと、 僕も苛立ちが溜まって妻に対して怒鳴ってしまいそうになったときに、 最後の最後で涙が出てきてしまって、 つまり泣き落としまでしてしまった。
 そんなこんながあって、 でも、 ある時点で何というか、 あるポイントを越えたことが僕にも分かった。 彼女が諦めた、 というか、 暗黙のうちに僕を許し、 支持してくれ、 少なくとも協力を拒まない、 と言う態度に変わっていることに気がついたのだ。 すると俄然勇気が出てきた、 というか、 本当に自分のプランがうまく行くような気がしてきたのだ。 ま、 男ってのは、 いや、 男全部を巻き添えにするのは止すことにして、 少なくとも僕って男は、 かなりエゴイスティックで単細胞だ、 というだけの話なのかも知れないのだけれども。
 そして、 そのことは彼女も知っているんだ。
 その夜はもちろん、 彼女をいつもの百倍くらい優しく抱いた。
 それから漸くものごとが動きだし、 極端に忙しい日々が続いた。 それでも約三ヶ月後、 僕達は、 僕が会社を退職するに伴う引っ越しに漕ぎ着けた。 社員用のマンションに住んでいた僕らは、 当然そのマンションを出なくてはならなかった。 日曜日ごとに不動産屋を訪ね歩き、 最終的に、 海の見える場所に、 という連れ合いの言葉に従った。
 引っ越し準備が深夜に及んだある日、 段ボール箱の中から十数冊のノートが出てきた。 結婚する直前までつけていた日記である。 古いものは二十年近くも前のものだ。 結婚生活が始まる前後にどこかに仕舞込み、 そのまま忘れていたものだった。 僕は、 パンドラの箱を開ける気持ちで、 その内の一冊を開いていた。 そして、 思いもかけず、 明け方まで次から次へノートを読み耽ることになってしまった。 その時、 僕が何を感じ、 何を考えたか。 それをここに述べるのはとても難しい。 ただ、 僕はショックを受けたのだ。
 日記は、 書かれた時期により内容も文体も大分違っている。 結婚直前のころのものは、 今の僕からみても特に違和感はない。 しかし、 二十代前半から以前のものは、 明らかに違うのであった。
 そこにいる僕、 と今の自分がうまく接続しないような気がする。 いや、 つながってはいるのだが、 その落差は自分自身が記憶しているより、 ずっと大きかったようなのだ。 僕は、 自分で思っていたより、 大きく変わっていたのかも知れない。 もちろん、 良い方に変わったのだと思いたい。 しかし、 それは分からないのだ。
 人は、 日々の行動における取捨選択の積み重ねで少しずつ、 時にはドラスチックに変わっていくものではないか。 そこにある種の可能性もあるし、 恐ろしさもある。 それを確かめてみる意味も含めて、 僕は今、 この過去の一点と現在とを取りあえず直線で結んでみようと思う。 実際には、 その二点間は限りのないN次曲線だろうし、 幾多の微妙なねじれをも含んでいる筈だ。 それでも、 いや、 だからこそ、 乱暴に二点を結んで得られた直線が指し示す方向を時に遠望してみるのは決して無駄な作業ではないだろう。
 ただし、 正直に言ってそれは、 決して気持ちのよいものではなかった。 自分の過去に向き合うなどと言うのは、 良くいって入れ子細工の箱を限りなく開け続けるような作業だし、 部分的には、 向かい合いたくもないようなものと出会い頭に衝突するような、 実際胃の底が冷たくなるような作業でもあったのだ。
 一番初めのノートから数えて五冊目のノートに、 この話の原型が書かれている。 二十歳の時のものだ。 三日間にわたり十二頁を費やして書かれている。 むろん、 小説のごとき体裁で書かれている訳もない。 また、 叙述の順序や文体も、 物語として、 と言うより、 過去に延びた直線の一方の始点として、 今回ある程度再構成してしまった。
 なんと言おうか、 そうするしかなかったのだ、 僕には。 ちょっと恥かしいような話だとは思うけれども。
つづく

2007-07-01
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