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冬が終わり、 春の訪れを知らせる木々の新鮮な若葉。 太陽が高く昇り、 まぶしいほどに輝いているのに、 暑いということはなく、 空気そのものが生まれたての淡い光に溢れている。
午後の軽やかな風は、 まだ少し冷たさを残し、 いつもなら感じるはずの塵のように積もる憂うつを、 いつのまにかそのひんやりとした手で取り去るかのごとく、
私の周囲に優しく吹いている。 私は、 何の目的もなく、 ただ歩いていた。 勉強のことも、 気になる女友達のことも、 来月に迫った留学試験のことも頭の片隅に追いやっておくことができた。
図書館に寄り、 道端の草木を眺め、 垣根の上で昼寝をしていた猫をしばらく眺め、 住宅街にぽつんと置かれた場違いな自動販売機でりんごジュースを買って飲んだ。
なんだか不思議に、 とてもおいしかった。
今、 そんな二、 三時間前のことが妙に遠い、 私とは無関係なことに思えるのだ。
午後三時のけだるい日の光の中、 そろそろ散歩から帰ろうとしていた私。 不思議に誰もいない住宅街。 奇妙に広々と感じられたその道の向こうから若い女性が歩いてくる。
私にはその女性が誰であるかが瞬時に分かった。 私は激しい混乱に陥った。 咄嗟に身を隠そうかと考えたくらいだ。 その瞬間の私は、 第一に私の動揺を決して悟られないように振る舞い、
第二にその動揺そのものを、 極めて恥ずべきものとして、 何もなかったかのようにやりすごすことを考えたに違いない。 その時、 自分の動揺の隠蔽に向かわず、
自らを開示する頑健さを持っていたら総ては違っていただろう。 だが、 生憎私にはその種の強さを恥ずかし気もないマッチョさと曲解する習癖があった。 だから、
私はそのまま歩き続けたのだ。 既にゆり子も気が付いている、 と私は確信していた。 歩みの一歩一歩がぎこちなく感じられる。
《私は急速に緊張し始めている。 ここでゆり子と出会うとは》
先ほどまでの弛緩した心的状況を破ったゆり子の登場に苛立つ自分を必死になだめつつゆっくりと変わらぬペースで歩き続け、 二十メートルばかりに近付いた時に初めて、
おやっという表情を浮かべてみせる私。 ゆり子も少し遅れて私に気付いた。 どうしてよいのか分からないまま、 ゆり子に微笑みかけている自分を見つける。 それはグロテスクで、
それ以上に滑稽な行為だった。 私がゆり子へ向ける微笑みは、 私という存在を見えすいた虚栄そのもののにしてしまう。 そしてゆり子が返して来た微笑。 以前とは明確に違う。
私が初めて見る微笑だった。 私はその意味を、 把握出来ずにいる。 ただ、 他人の深い傷口を突然のぞき込んでしまった、 という強烈な印象が生まれる。 そうだ、
と私は思い出す。 以前のゆり子は決して傷口をさらけ出すようなタイプではなかった。 それによって傷口が広がろうとも、 死にものぐるいで隠し通すような女だった……。
私は慌ててゆり子から目を逸らした。
《私に、 傷口を見せても構わないというのか》
しかし、 その目を逸らす行為自体が私の自意識にとっては耐え難い屈辱と感じられ、 度を失って再び無様に逃げだしたい衝動にかられ、 ……気付いたときには、
たまたま目の前にあった気の利かぬ喫茶店にゆり子を誘っていたのだ。 そんな独りよがりな私を少し驚いたように見詰めるゆり子。
一瞬後、 ゆり子は私の申し出をたぶんにあっさりと――承諾した。
《よせよ。 何故頷いたりするんだ》
私は、 混乱したまま顔の筋肉を操作するようにして微笑し、 うなずいてみせ、 先に立って店のドアを開けた。 外の明るさに慣れた目には、 店の中は真っ暗な洞窟のように見える。
私は窓側の明るい席を捜した。 どこも空いていた。 客などひとりもいないのだ。 私は、 窓側の席に行きかけ、 ウエートレスに席を勧められると急に踵を返して一番奥まった壁際の席に座った。
自分が間違いを犯していることに気付いていた。 何をすればいいのか分からなくなりかかっていた。 常に冷静であろうとしている私に、 この失態を強いている当の原因 ゆり子に対する嫌悪が微妙に、
しかし避けようもなく、 生ずる。
息苦しかった。 空気が悪いに違いない。 私は何故こんな所に座っているのだ? 救いを求めるように周りを見回した。 しかし、 たちまちゆり子の視線とぶつかってしまう。
歪んだ笑いがふっと消えて行くのを捉えた。
その刹那、 私の中で何かが一瞬のうちにくるりと回転した。 驚きと怒りが羞恥とないまぜになって次の瞬間落ち着きを取り戻す。 既に私という人間の前面を、 ゆり子に対する完全な嫌悪感が占めている。
その嫌悪感に反比例するかのように、 うんざりするほど優しい顔の誰かが、 嫌らしいほどの落ち着きを見せてゆり子を見詰めているのだ。
《ああ。 こうなると、 僕ほど嫌味な人間はいないんだ》
ウエートレスがオーダーを取っていった。 突然、 自分でも呆れるほど落ち着き払ってしまった。 私は、 最近観たスウェーデン映画の話を始めた。 次に何の脈絡もなくロシアの作家アレクサンドル・グリーンの中篇
『真紅の帆』 に話を移した。 私はそれらをさも感動したように語った。 映画を観に行ったときの天候や、 一緒に行った女友達が帰り道に言った感想や、 グリーンの小説が収められている本を古本屋で見つけた経緯なども話して聞かせた。
だが、 実際には何も語っていないに等しかった。 私は、 ただ何も考えずに口を開き、 誰かが勝手に喋るに任せていただけだ。 少し離れていさえすれば、 それはガールフレンドに夢中で映画や本の話をしているどこにでもいる純情な青年の姿に見えるはずだった。
一方のゆり子も、 白いテーブルクロスの上の水の入ったグラスと、 私の胸の第一ボタンの間を交互に眺めているだけで、 私の言葉など少しも耳に入っていない様子なのは明らかだった。
少しずつ表情が暗くなり、 私の視線を受け止める瞳が揺れ始めている。 そんなゆり子の様子を平静に観察し、 私は少しずつ緊張を解いていく。
《まぁ、 そんなに構えることもないよな》
壁に掛けてあるスーラの 『日曜日の午後』 の複製画と、 目の前のゆり子の両者に交互に視線を彷徨わせつつ、 穏やかに言ってみた。
「趣味のいいスカーフだね」
しかし、 反応は意外なほど鋭敏に現われた。 ゆり子は一瞬私と視線を合わせると、 どぎまぎしたように小さく微笑み、 それから口紅で濡れたように光る唇を急にすぼめると、
それがまた突然に開いて歪み、 うつむいてしまった。
《何だい、 これは》
私は可笑しくなってしまう。 私のさり気ない一言にこれほど取り乱すゆり子。 私はわき上がる愉快な気持ちを自制すべきなんだろう。 それに、 ゆり子はいやに飾り立てている。
ライトイエローのスカーフだなんて、 まるで旗で先導されて横断歩道を渡るランドセル背負った小学生じゃないか。 それにまったく 今頃になって気付く私は少しばかり責められていい ゆり子は口紅だけでなく、
アイシャドウ、 マニキュアまでしている。 そしてエレガンスそのものといった感じの紺のドレス。
《こんなのはセミロングって言うんだったかな》私は女性の服の名称や何かにはまるで弱い私自身がいやに可笑しく感じられた。
《ゆり子がこんなにオシャレだったとはね……》しかし、 私はこう考えながらも何か軽く頭をつつかれるような思いでこのゆり子のお洒落に不自然な要素を感じ、 その訳を考え始めていた。
以前のゆり子が、 自分をあまり飾りたがらないタイプの女性であったことを、 目を覚ますようにして思い出す。
しかし、 今度はゆり子が私の思いを遮るように言った。
「二人で話すのって、 随分久しぶりね」
「そうだね」 私は用心深く答える。
「留学するんですって?」
「試験はこれからなんだ」
「じゃ、 勉強大変ね」
「でも、 ないさ」
「ふうん……」
ゆり子は、 暗闇で手探りでもしているかのように少しずつ喋り始める。 私は相槌を打ちながら、 漠然と再び緊張していく自分を意識した。 私はそこに、 私にとって不愉快な連想の方向を感じ始めていた。
ゆり子が微笑む。 私はつい微笑み返しながらも違和を感じる。
ぽつりぽつりと話すゆり子を見つめ、 桃色の耳や痩せて細い首の線に漠然と視線を彷徨わせながら、 ごく単純なことに改めて気付く。
《確かに、 ゆり子は綺麗になったんだ。 素晴らしく……》
我知らず心が波立つ。 しかし私はその一方で急激に冷めていく。 確かに、 綺麗、 か……。 そうなのだ。 何事にも注釈付きでしか発言することの出来ない私の偽善性。
いや、 しかしそれこそが私なりの精一杯の誠実さなのではないか。 だが、 現実には私の言葉すべてが不誠実に響く。 他人が期待する何かを裏切っていく。 だが、
それはいつものことだ。 あの頃、 ゆり子との間にも繰り返された。 私が求める誠実さは、 結局のところ現実的・現世的な価値観の否定形をとる。 だから、 そんな私がいまさらゆり子の飾りたてた美しさを認める必要などはない。
それは結局、 私が妥協するということに他ならないではないか。
しかし一方で私は、 自分の求める誠実さを否定する契機も十分に持ち合わせている。 何故なら、 その誠実さにおいて高度であろうとすればするほど結局は、 自分はもとより他者の現実を否定するものとしての他者否定そのものと化していく他ないのが明らかでありながら、
私は私が考える誠実さに潜む、 他者否定の契機の潔さ自体を認めまいと努めていたのだから。 その結果、 私は私の誠実さの行き場を自ら閉ざしてしまうことになる。
言い替えれば、 私は自分の誠実さの概念を純化すべきではなく、 洗練すべきなのだ。 自己矛盾をも優雅に含み込んだものとして。
すると私は、 結果としてこんなことを残酷にも口にすることになる。
「今やっと気付いた僕は愚か者だな。 きみは本当に綺麗になった。 以前にも増して」
しかし、 信じがたいことに、 ゆり子は私の言葉を文字通りに受け取ったらしい。 声を出さずに花のように笑った。 文字通り百合の花が揺れるように。 私に対して安心し、
心を許したかにもみえる笑顔を見ているうちに、 私にも笑みが浮かんできた。 ゆり子のそれとは対照的だろうはずの笑顔が。
不意に、 考えていた。 ゆり子は幸せなんだろうか。
《おいおい、 私は何を考えているんだ》
自分の脈絡のない思考に愕然として、 そんなことを考えさせたゆり子に対する強い憎しみの影が心の隅を横切っていくのを感じる。 ほとんど同時に私はそんな自分自身を軽蔑する。
ゆり子が幸せであろうがなかろうが、 今の私に何の関係がある……。
「あのころは楽しかったわね」 とゆり子が言う。
「そうかい?」 私は懐疑的な調子を微妙にブレンドして言う。
「あら。 楽しかったわよ。 私は。 少なくとも。 あ。 ほら……。 授業を抜け出して、 二人で江の島まで行ったことがあったじゃない。 もう少しで、 先生に見つかるところだったわ。
ね? 風が強くて。 植物園があって……。 私のカメラで写真撮ったじゃない? ねぇ、 覚えているでしょ。 帰りにおなかがすいておばあちゃんがやっていた小さな店でかつ丼食べたじゃない。
何だかとってもおいしかった。 海にたくさんディンギーが出ていて、 夕日が綺麗で……。 あんなに綺麗な夕日、 見たことがないような気がした……」 ゆり子が、
ほんの少し上気した顔でぽつりぽつりと話す。 無意識に何度も髪をかき上げる仕種が高校時代と変わらない。
「あの日土産物屋さんで買ってくれたブローチ、 まだ持っているのよ。 誕生日にくれたオルゴールも……。 でも、 『別れの曲』 だったんだよね。 何故 『別れの曲』
なんだろうって、 随分考えたよ。 あなたって、 とてもやさしい人だと思っていたのに……。 何故か、 やわらかい壁に当たるの。 とってもやさしく笑っていたと思うと、
いつの間にか笑いが強ばっているのに気付いて……。 心臓が凍っちゃいそうな気がした。 本当は迷惑なんだ。 私じゃ駄目なんだって……」 ゆり子の瞳が揺れている。
唇が震え始めている。
「そうじゃない……」
「嘘っ。 だって、 みんなの前で」 すがるような瞳が私を見る。
「何故みんなの前で証明しなくてはいけない」 思わず声に苛立ちがこもる。
「だって、 不安で。 何にも言ってくれなくて――」
「……もう、 終わったことだろう」
「終わってない」
「……何も聞いていなわけじゃ、 ないんだ」
ゆり子が黙り込む。
「どんなことを聞いたの」 ほとんど聞こえないくらいの声だった。
「いや。 何も聞いていない」
「今聞いたって……」
「聞きたくはなかったさ!」 私は思わず小さく怒鳴っていた。
オレンジ・ジュースとフルーツ・ソーダをトレイに乗せて運んできたウエートレスが、 四、 五メートル手前で足を止めてしまう。 私は何でもない、 と笑ってみせる。
構わないからテーブルの上に置いてくれ。 たいしたことじゃない、 という身振りでそう頼む。 ウエートレスは私を一瞥し、 ついで目を逸らすと黙ってオレンジ・ジュースとフルーツ・ソーダを置いて踵を返す。
私は身の内がカッと熱くなる恥ずかしさに捕らえられる。 私は何か喋ろうとする。 しかし、 声が出てこない。 高校時代の思い出が頭の中で重なり合うように渦巻いている。
しかし今ゆり子に言うべき言葉は何も思い浮かばない。 ゆり子は両腕を固く突っ張らせ、 腿の上に握り拳を揃え、 視線を床に落してうつむいていた。 それから――。
ゆり子が、 泣き始めていた。
声も出さず、 ただ閉じた瞼の下から涙が溢れ出す。
心の底が冷え込み、 薄く脆い氷の結晶が膜を張り始める。
「噂は嘘じゃないわ。 私たち、 本当に愛し合っていたの」 ゆり子が目を伏せたまま言った。 しわがれた、 ほとんど聞き取れないくらい低い声で。
「それは、 良かったじゃないか」 私は反射的に心にもない台詞を言う。
《やめろ。 私を信じているようなふりをするな》
ゆり子がぴくっと身を震わせ顔を上げる。 「妊娠したのも本当」 ささやくようにゆり子が言う。 自分のからだにゆっくりとメスを入れる。
「……おめでたいことだ」 私は、 恐ろしく冷たい声で言っていた。 目を見開いたゆり子が私を見詰めている。 綺麗な顔だ、 と改めて思った。 私は煙草を探す。
そうとも。 私の知ったことじゃない。 君らのことは君らで解決してくれ。 小田との痴話など、 聞きたくもない……。
《これは、 怒りと言うより憎しみだな》
私は、 冷静に憎しみを軽蔑にまで転化させようと試みる。
《ということは、 確かに私はゆり子を愛していたんだ》
目を伏せたまま口元を歪めて笑ってしまう。 煙草に火をつけ、 煙を吸い込む。 私は自分の薄情さを確認する。
「……当然の報いだ、 と言うのね」 ゆり子の声が震えている。 「俺の知ったことじゃないって、 言うのね?」
「まて、 そうは言っていない」 いや、 その通りだ。 初めから分かり切ったことじゃないか。
「僕に出来ることがあったら言ってごらん」 私は目を上げてゆり子を静かに見詰め、 どこかで聞いた台詞を、 照れもせずに言う。 この言葉が持つその完全な偽善性によって、
ゆり子が伸ばす細い腕を、 私はバッサリと切断してしまう。
《これでいいのだ。 いずれにしても、 とっくに終わったことなんだから》
ゆり子の顔にへばり付いていた表情が崩れ落ちていく。 ゆり子が私に対して抱いていた何かが、 いま壊れていくのだ。 私はそれをただ見ている。 私はたった今、
その“何か”を斬り殺した訳だ。
《そんなこと、 構うものか》
それでも私は、 一瞬強く目をつぶっていた。 私はすぐさまその自分のひ弱さに反応しそうになり、 瞬間に思考のポジションチェンジを繰り返し、 その時 ―――
私ね、 と遠くの方から声がするのを聴く。
「私、 死ぬんだから――」
それは、 ゆり子の声だったのだろうか。
《時間の感覚がおかしくなってしまったみたいだ》
先程から私はそう考えていて、 何故かそれ以外のことが考えられない。 ゆり子が私に向かって言った一言が、 時の流れを狂わせてしまったようだ。 いや、 そんなはずはない。
あれから二十分過ぎた。 もうすぐ二十一分。
私は、 いま、 白いテーブルの上に目を落としている。 テーブルの上には、 とっくに空になった凡庸なデザインのコップがふたつ置かれたままだ。 ゆり子はコップに特別な関心を持っているらしい。
それ以外の解釈を拒むような執ようさで見入っている。 上部が百合の花のように開いたコップで、 柄の長いスプーンとストローがややくたびれたように傾いて投げ込まれている。
底には綺麗なみどり色のソーダ水が僅かに残っている。
無意味な忍耐は限界に達している。 その自覚が私を集束して行く数列のように追い詰めて行く。 私の意識は反復する。
《呆れた話だな、 まったく。 あれで私を脅迫しているつもりなのだ》
私、 死ぬんだから――だって?
とんだお笑い草だ。 まるで本当に死を予告しているように聞こえるじゃないか。 だが、 死の予告と言えば、 通常本人にとっては勿論、 告げられた人間にとっても重大事であるはずだ。
それなのにどうだ。
ご本人はいざ知らず、 告げられた私にとっては、 笑い話でしかないなんてね? 本当に私は吹き出しそうで、 困っているんだ。 君が、 深刻そうな顔や、 あるいは逆にいかにも何でもない、
あなたのことなんか知ったことではない、 というようなさりげない表情の演出にえらくご執心なんで、 私は笑うに笑えない。
ああ。 だから、 もう、 やめてくれないかな。
「いい加減に、 もうこんな茶番は終わりにしようじゃないか」 そう言って、 私は立ち上がった。――空想の中で。
お笑い草は、 私の方だ……!
今、 この瞬間にも私はゆり子のあの一言から逃れられず、 標本台の上に虫ピンで留められた蛾さながら、 かれこれ二十分以上もここにこうしている……。 ゆり子の言葉に、
何と応えるべきか。 私は、 凍りついてしまった頭の中でのろのろと、 しかし必死に考え続けた。 私のような人間には、 不自然なほどのやさしい言葉が何度も衝動的に口をついて出そうになった。
何かほんの少しの慰めの言葉だけでもかけてやりたい。 私の中で感傷というしかない熱い何かが出口を求めて渦巻いていた。 その一方でもう一人の私が、 これは罠だ、
騙されるな、 お前に何が出来るというのだ、 自惚れ屋め、 と叫びたてている。 お前は自分を偽ることを知っていながら、 ゆり子に手を差し伸べ窮地を救いだす王子を気取るつもりか。
……
私は、 ついに口を開かない。 ゆり子も黙ったままだ。 このまま、 あるポイントを通り過ぎてしまえばいいのだ。 それが私に相応しい唯一の在り方だ。 《そうだ。
私に欠けているのは、 本当の意味での冷酷さだな。 今の私には、 かえって残酷であるしかない優柔不断なやさしさがあるだけだ》
つづく