2004年11月に発行した小説集『土星の環』のコンテンツを
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   尾道ラビリンス


  1 借りた本から旅が始まる
 その年の夏は何の予定もなくて、 おまけに記録的な天候不順で、 梅雨が明けず、 夏がいつまで待っても訪れてくれないままなんとなく日々が過ぎていくばかりだった。 誰もが挨拶代わりに天気の話をしてはため息をついた。 長期予報が発表されると人々は格好の冗談の種を仕入れたと見なした。
 名古屋支社から東京本社勤務となって十か月。 中学二年に名古屋に引っ越して以来、 東京での生活は本当に久しぶりで、 神経が疲れることも多い。 仕事は昨年の暮れから徐々に忙しさが増していて、 いまでは隔週の土曜休暇も取りにくくなっていた。
 これで良かったのだろうか。
 沖田弘明は、 この頃よくそう考え込んでいる自分に気がつくのだった。
 沖田が勤める会社は、 一昨年業界で売上高十位以内に入り、 今年は五位以内を目指そうという急成長の企業だった。 もともと名古屋から会社を起こし、 東京はもちろん、 全国に拠点を作り、 教育産業で成功し、 通販部門を独立させ、 ダイレクト・メールによる通信教育教材のツー・ウェイ・システムを足場に、 教育部門で掴んだ若い購買層に向けた直接的な広告・販売・情報伝達システムを構築していた。 強引とも言われるその経営手腕で会社を急成長させたのは、 創業者で社長の村川だった。 村川は既に、 今年情報通信部門を独立させて次の事業展開を睨んでいる。
 本社は五年前に名古屋から東京に移されていた。 名古屋採用の広報部門の末端にいた沖田の書いた一本の企画書が、 どういう経緯で村川の目に触れのか、 沖田には分からなかった。 しかし、 昨年九月沖田は名古屋事業部広報部長の金谷から突然の配置換えを言い渡された。 部長室に沖田を呼びつけるといきなり、 栄転だ、 東京に行くんだ、 と金谷は言った。 少し吃る癖のある金谷がつっかえもせずに言った。 沖田は何のことか分からずに、 金谷の顔を初めて見るように見つめた。 社長直々のお声がかりだ、 と金谷はやや古めかしい言い方をした。 君の書いた企画書を社長が、 役員会議で大変褒めてくださったそうだ。 ……
 沖田は、 昼休みに公園のベンチでサンドイッチを頬張りながらため息をついた。
 気が付けばすでに八月も半ばだ。
 夏休みもいまでなければ八月中は取れそうにない。 ところが、 具体的な予定はなにもない。 それはそれでいい。 そうは思っていたものの、 いざ明後日から休みなのに何も予定を考えていないとなると、 土日を入れてほんの五日ばかりの休みは、 何をする間もなくただ無為のままに過ぎてしまいそうだった。
 僕は、 休暇中の予定を考える、 という気力さえなくしている、 ということだろうか。
 困ったものだ。
 沖田は、 残りのサンドイッチを飲み込みつつ立ち上がって、 ポリ袋とウーロン茶の空き缶を分別された屑籠にそれぞれ投げ込んだ。
 やれやれ。
 伸びをして、 肩を軸に右腕をぐるんと振り回すと、 オフィスに向かって歩き始めた。
 夜。 勤め帰りの電車にサラリーマンがぎっしり埋まっている。 沖田は重い首をゆっくり左に傾けてみる。 昼間の疲れが、 首の付け根あたりに拭い難く残っている感じだ。 次の広報展開のための検討資料に目を戻すが、 頭に入りそうにない。 隣に立っている五十がらみの男が、 吊り革に掴まったまま舟を漕いで酒臭い息をはき出す。 疲労そのもののような男の息  。
 日本海でも見に行くか。
 窓の外を流れ去る暗闇を眺めながら、 ぼんやりとそう考えていた。 佐渡か金沢まで足を延ばしてみるのもいいかも知れない……。
 昼休みに勤め先のすぐ裏手にある公立図書館に旅行ガイドブックを借りに行くつもりでいた。 それなのに、 つい行きそびれたり忘れたりで今日こそは行くぞと思ったのが休暇予定日の前々日だった。 だったのだが……借りていたCDを持ってくるのも忘れていたのだった。 前回借りていた本やCDを全部返さないうちは、 次に借りることはできないのが原則だった。
 明後日から休みだったよな……。
 そして、 なんとなく、 沖田はガイドブックを買う気持ちにはなれなかった。 であれば、 ガイドブックなしの旅行をしてみようか。 そうは思うものの、 それも自信がないのだ。 本物の旅は羅針盤のない旅だ、 などと聴いたふうな言葉が頭をかすめるものの、 どんな旅でも何らかの内なる羅針盤に従うものなのではなかろうか。
 その羅針盤が問題なのだ。
 昔は安物にせよ何にせよ、 手作りの大きな羅針盤を自分で持っていたような気がする。 しかし、 今はどうだ。 僕は羅針盤をどこに置いてきてしまったのだろう。 押入の奥にでも仕舞い込んだまま忘れたのか。 食事用の御盆にでも使っていて、 度忘れしている訳じゃあるまいな……。
 たぶん、 僕の場合、 幼い頃にリデンブロック博士やアクセル君と一緒に旅した地底世界で遭遇した、 地底の海の磁気嵐のために羅針盤を狂わされたままで、 しばしば間違えるはずのない道を間違え、 迷うはずのない町で迷う経験を繰り返し、 すっかり自分の羅針盤を信用できなくなっているのだ。 そう考えて、 沖田は苦笑する。 「羅針盤」 という言葉にベルヌの 『地底旅行』 を連想する、 そんな自分が可笑しかった。 自分が社会に適応していると言えるのかどうか、 時々自信がなくなる沖田だった。
 仕方がないから、 明日少し離れた別の公立図書館に昼休みに自転車で行って、 その場で利用者カードを作ってもらって借りればいいではないか。 そう思い直すと、 沖田はいくらか元気が出てきた。 気休め程度ではあったけれど。 地下鉄が乗換駅に着いて、 沖田は半ば無意識のうちに押し出され、 地下通路を歩き始めていた。
 翌日の昼休み。 職場がある港区の公立図書館は、 一度に四冊まで貸し出すのが普通だった。 沖田は自転車で少し離れたところにある図書館まで行き、 金沢や佐渡を含む二冊のガイドブックを借り、 ついでに目についた本を二冊借りた。 今日の夜ゆっくりガイドブックを読んでポイントをつかんでおいて、 明日は昼前に出発して、 とりあえず上越新幹線で新潟に抜ければいいのだ。 それから先はその時考えればいい。 とにかく、 日本海を見ることができれば、 いいんじゃないかな……。
 図書館から帰ってくると、 名古屋事業部営業二課の小山加代子からメールが届いていた。 「夏休みはとりましたか。」 と加代子は書いていた。 沖田は少し周りを気にした。 誰も沖田に注意している者はいない。 ディスプレイに集中する。 「暇が出来ればちょくちょく帰ってくると言っていたのに、 出張で一度寄っただけ。 それも、 挨拶だけして会議に出たら、 後は延々打ち合わせで、 結局そのまま帰ってしまうなんて、 ずいぶんですよね? みんな、 東京へ行って沖田は変わった、 と言っている、 と言ったら、 どんな気がしますか? もう、 名古屋の企画部なんて忘れてしまったのかしら。 私だってそう思ったくらいです  」
 電話が鳴った。 前の席の甲田恵が電話を取り、 すぐに沖田に転送した。 「秋田産業の中山さんからです」
  「はい。 沖田です。 お世話になっています。 ……」 沖田は、 メールソフトの画面を一瞬に切り替え、 受話器を受け取って話し始める。 加代子のことを頭から追い払うように。 とにかく、 今は仕事だ。 そう自分に言い訳しながら。 沖田は午後の仕事に忙殺されていく。 明日から休みを取るつもりなら、 片付けなくてはならない仕事がいくつもある。 それでも、 夕方までには仕事が捗り一息つく。 思い出して加代子のメールを開こうかと考えるが、 そのまま自宅に転送してしまう。
 帰ってからにしよう。 どのみちゆっくり返事を書いている時間はない。 沖田は帰り支度を始めた。 恵が、 明日から夏休みですよね、 いいなぁ、 と言う。 沖田は笑ってみせるが何も言わない。
 ところで、 沖田がついでに借りた二冊の本のうちの一冊が、 映画監督大林宣彦の本だった。 関係者や本人のエッセイ等もあったけど、 基本的にはシナリオ集。 それも監督の故郷 「尾道」 を舞台に撮ったことから尾道三部作と通称されている 『転校生』 『時をかける少女』 『さびしんぼう』、 それにやはり尾道で撮った 『野ゆき、 山ゆき、 海べゆき』 を加えたものだった。 しかも、 それはただのシナリオ集ではなくて、 ご丁寧なことにシナリオ上のどこそこのシーンは尾道のどこでロケーションしたか、 ということまでがすぐにわかるように対応番号の付いた尾道マップがついていた。
 沖田は、 帰りの電車の中でその本を読み始めた。 浅草線の中で読み、 さらに東西線の中で読み続けた。 葛西に着き、 喫茶店のBセットで夕食を済ませながらなお読み進んだ。 それからアパートに帰った。 部屋のまん中にぼんやりと腰を下ろした。 さて、 旅行のことを考えなきゃな。 そう考えたとき初めて、 尾道へいこうか、 という考えが浮かんだ。
 悪くない考えであるような気がした。
 マックを立ち上げ、 Google 検索で 「ドリーム号」 と打ち込み、 一番に表示された 「ジェイアールバス関東株式会社」 をクリック。 時刻表をチェックする。 ハイウェイ・バス 「ドリーム号」 の出発時刻を確かめる。 沖田は以前にも一、 二度ドリーム号を利用したことがある。 新宿発のニュー・ドリーム号もあるが、 東京発に間に合えばその方がよい。 京都行き最終便が東京発午後十時五十分であった。 今が八時五十五分過ぎだから、 二時間弱ある。 何とかいけそうだ。
 ドリーム号というのは東名高速道を使って奈良、 京都、 大阪などに目的地別の便で向かう指定席夜行バスだ。 東京発は東京駅の八重洲口から出発する。 問題は空席情報だった。 空いているか……。 しかし、 空席情報の頁に示されたのは、 並んだ×印だけだった。 東京発も新宿発も満席だ。 今の時期、 さすがに当日では無理なのか。 残念だ。
 思いついて、 続いて検索窓に 「京成バス」 と打ち込み検索する。 京成バスのホームページにアクセスし、 ……ある、 あるじゃないか。 上野から京都の便がある。 十一時二十分発。 うん、 何とか間に合うだろう。 しかし、 予約が必要と書いてある。 電話か……。 しかし、 予約受付時間の午後七時はとっくに過ぎている。 念のため電話するが、 営業時間終了の自動応答だった。
 仕方がない。 京都でなくてもいい。 神戸でも和歌山でも構わない。 関西から先の方面のドリーム号が空いていれば構わない。 そう思い直して、 ジェイアールのホームページに戻ってみる。 そしてもう一度空席情報の頁にアクセスすると……どういうものか、 先ほどは確かに×印がついていたはずのドリーム京都号の本日の欄に△印がついている。 残りわずか……か。
 しかし、 既に予約時間の午後九時が過ぎている。 電話するが、 またしても自動応答電話だった。 さっきだったら間に合ったのに……。
 何とも割り切れない。 しかし、 予約なしで運試しをしよう、 と腹を決める。 京都行きが駄目なら、 どのバスでもいいから南下するバスに乗ってみよう。 それもまた面白いじゃないか。
 沖田は、 そう決める。
 京都には (うまく行けば) 翌朝の七時ごろに着く。 そこで尾道を含むミニ周遊券を買う (探したら、 ちょうど適当なのがあった)。 帰りは京都から新幹線を使う。 ドリーム&ひかりという切符も発見した。 それを初めに買えばいい。 うまく行けば、 時間的にも金銭的にも無駄のない計画であるはずだった。 なんだか思い悩んでいたジグソー・パズルが最後にきて、 偶然から急にぱたぱたとはまってしまったような気分だ。 運試しの方は……それを楽しめるかどうかは、 むしろ沖田自身の問題だ。
 いつの間にか、 旅行計画のアウトラインが出来ていた。
 荷物は、 着替えの他に、 買ったばかりの iPod (急いで 『時をかける少女』 のサウンド・トラック盤を全曲 iTunes 経由で入れた)、 図書館で借りた問題の本 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン 尾道』、 あとは髭剃りや洗面道具など。 中ぐらいの旅行バッグが八分目になった。 また、 これも先日買ったばかりのサイドバックも持って行くことにした。 こちらは、 旅先で最低限のものを入れて歩き回るのに使う。 これらに加え、 沖田は古い時刻表から東海道、 山陽の部分の鉄道路線地図、 尾道を含むミニ周遊券の頁を破って持って行くことにした。
 荷物を詰め込んで、 さて、 どうしてもシャワーを浴びなきゃ、 だ。 ハイウェイ・バスに乗って一晩ゆられることになるのだし、 明日はたぶん、 さんざん歩き回ることになるのだ (それが沖田の旅のパターンだった)。 その前に、 とにかくさっぱりと汗を流しておきたかった。
 シャワーを終えると、 もう十時五分だった。 時間は余りなかった。 いや、 もうぎりぎりだった。 急いで服を着て、 アパートを飛び出した。 駅まで約五分。 東西線の葛西から日本橋まで二十分弱。 そこから東京駅まで徒歩約七分。
 充分間に合う、 筈だ。
 平日の、 夜十時過ぎの上がり電車はすいていた。 日本橋の駅は疲れた顔の勤め人が行き来している。 いつもどおりの風景だった。
 でも、 僕はこれから尾道に出かけるのだ。
 沖田は、 全身に異様な 「元気」 が溢れているような気がした。 鬱陶しいことは、 何もかも背後に置いてきてやる、 といった感じだ。 半乾きの髪が涼しかった。 日本橋から東京への道を跳んで歩いた。 それでも東京駅のドリーム号の窓口に着いたのは出発五分前の十時四十五分だった。 窓口の初老の職員は気ぜわしげに外のバスの方を気にしながら、 予約はしてあるか、 と沖田に聞いた。 していない、 ドリーム&ひかりの切符はあるか、 と聞き返した。 それは、 あった (むろん、 あるはずなのだ)。 はやく、 前だから、 と急がされて沖田は切符を握り締め外に出た。 ドリーム号が数台並んでおり、 乗車待ち客がまだたくさんいる。 運転手とおぼしき男が二人煙草をふかして立ち話をしていた。 五号車ならあっちだ、 とひとりが教えてくれた。
 ありがとう。
 五号車は一杯だった。 沖田は一番後ろの席だった。 やはり最初の×印は見間違えだったのだろうか? もしかすると、 キャンセルでも出て、 本当に沖田が最後のひとりだったのかも知れない。 いずれにせよ、 あの△印には感謝しなくてはならない。
 沖田はやっと一息ついた。
 隣は学生風の男だった。 男はウォークマンでなにかを聴きながら軽く頭を振っていた。 沖田はバッグを網棚に上げた。 靴を脱ぎ、 紙のサンダルを履き、 毛布を被り、 背をリクライニングさせる。
 バスが動き始めた。
 二〇〇×年八月二十三日夜十時五十五分。 沖田の旅は始まった。
 バスは走り始めるとすぐに、 半分灯りをおとす。 窓の外を東京の夜景が流れて行くが、 窓側の席ではないのでそう見てばかりもいられない。 第一、 すぐにどこを走っているのかわからなくなる。 暗いせいもあるが、 沖田は本格的な地理音痴だった。 沖田は iPod を聴いたり、 ぼんやりしながら眠くなるのを待った。 あまり眠くなかった。 それに、 どう転んでも寝易くはないのだ。 羽蒲団で寝るようにはいかない。 沖田は、 うつらうつらしながら、 始まったばかりの旅のことなどを考えるともなく考えていた。
 岡村孝子が 『心の草原』 を歌っている。 十七歳という多感な時期に聴き始めてから、 彼女の歌は常に沖田と共にあった。 彼女の作る曲には、 どこかに永遠へのあこがれがある。 それが彼女を沖田の 「特別」 にしていたのかも知れない。 その彼女が、 結婚、 出産を経て、 今どこにいるのか、 気にかかっていた。 ピュアな少女が母親となり、 それでも貫かれるあこがれの形があるならば、 彼女が見せてくれるかも知れない。
 尾道は、 ある意味では、 中途半端な場所にある。
 岡山と広島のまん中で、 飛行機で行こうとすると、 飛ぶ距離は短いが降りてから電車に乗る距離は割にある。 新幹線には新尾道という駅があるのだが、 新幹線のようなハイスピードの電車で着いて、 いきなり、 はい尾道です、 というのは何かつまらない。 旅には目的地に至るプロセスの楽しみという奴があってしかるべきだ、 などと沖田は考えている。 だから、 ドリーム号で、 京都までの距離を心理的に端折って、 そこから新幹線や在来線の急行でも乗り継いでのんびり尾道まで行けばいい、 と考えたのだ。
 そしてそれは、 うまく運んでしまったようである。
 それにしても、 尾道に行くと決めてから、 二時間と少ししか経っていないのだから、 なんだか不思議だった。 だいぶドタバタしたけれど、 それでもまずまずのスタートを切れたのは、 何の用意もしなかったようでいて、 実はそれなりに無意識的な過程が僕の心の中で進行していたことが大きいのかも知れない。 そう沖田は考えている。無意識的な過程の進行だって? まあね……。
 確かに、 沖田には観念的な言葉をもてあそぶ傾向がある。 大袈裟なもの言いはしていても、 実際には、 大林監督の映画やエッセイの印象や、 イメージとか、 そんなことを指しているに過ぎない。 具体的な準備はなにもしていなくとも、 精神的な、 あるいは象徴的な準備は進行していた、 と考えることは出来る。 沖田流の理屈だった。 だからといって、 その象徴的な準備ってどんなものなのですか? なんて、 マジメな顔で聞かれたとしたら、 沖田としても困ったことだろう。 しかし何食わぬ顔で、 無意識がアレンジしたシンボリックなイメージが、 確かにぼくを尾道に導いているのだ、 とか何とか、 適当なことを言いかねない沖田だった。 実際はただ、 久しぶりの開放感に包まれていたのだ。
 久しぶりの開放感。
 しかしそう考えて沖田は、 改めて自身の閉塞感とも顔をつき合わせる。 何がどうとはうまく言えない。 今の生活のどこがいけない、 と指し示すことも難しい気がする。 でも、 何か一番大切なものが欠けている。 言葉にできないもどかしい想いが常に胸の奥に潜んでいて、 折に触れ内側から沖田の胸板をノックする。 控えめに、 だが執拗に。
 これでいいのか。 そう問う声がする。 沖田はその声に答えることができない。 正面から受け止め、 答えたことがない。
 怖いのだ。 考えたくないのだ。 子供っぽい願望の数々を諦めて、 今日を生きている自分を認め、 正面から覗き込むようなことをしたくないのだ。 高校の時まであれほど好きだったギターを何故ぷっつりと止めてしまったのか。 バンドをやって生きていくつもりだった自分はどこへ行ったのか。 あれほど夢中になれたものを今何ひとつ持っていないことに、 後ろめたささえいつしか感じなくなっている自分がいる。
 そして加世子のこともある。 でも、 今は考えられない。 考えたくはない。
 岡村孝子の曲が 『adieu』 に替わった。 気怠さと眠気がスクラムを組んで沖田の脳に押し寄せてきた。 さあ、 そろそろ寝よう。 腰から下に巻き付けていた毛布を肩までたぐり寄せる。
 その時、 五つほど前方右側の席の女が肩越しに振り向いた。 沖田と目があった。 瞬間互いにまじまじと見詰めあっていた。 女はクリスマス・イブから大晦日のあたりまで、 何歳といっても通りそうに見えた。 無表情だった。 沖田に対する関心など一〇〇%なさそうだった。 完璧な卵型の顔つきで、 左目の下に小さなホクロがあった。
 女は小さく頷いてから前を向いた。 それっきり動かなかった。 寝てしまったのだろうか。 僕の知った女だろうか。 沖田はしばらく考えていたが心当たりはなかった。 頷いたように見えたが、 あれはどういう意味だろう? ……わからない。 尋ねて見ようか……。 何て聞くんだ。 やあ、 今晩は。 君、 ひょっとして右目の下のホクロを落さなかった?
 やがて本格的な睡魔がやってきて、 考えるのが面倒になってきた。 灯りが落とされた。 バスは途中で何度かトイレ休憩をしながら単調に走り続ける。 いつのまにか沖田は眠っている。 バスは一晩中ハイウェイを走り続ける。
 日の光が横から差し込む。 朝の光だ。 もうすぐ京都駅だろう。 まだちょっとねむい。 沖田はもう少し寝ていたかった。
 バスが駅前広場に滑り込んでいく。
つづく

2007-07-01
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