2 思いがけない再会
多少おぼつかない足取りでバスを降りると、 巨大な京都駅が沖田を見下ろしている。 朝日を浴びて光る窓、 青いドーム。 全体の印象が淡い。 まだ、
京都駅も半分寝ているのだ。 それでも、 京都駅を見ていると、 どうしてもその巨大な内部空間に吸い寄せられるように近づいてしまうことになる。 少なくとも沖田の場合はそうだった。
とぼとぼと駅の方に歩いて行く。 とにかく朝食だ。 時間は七時丁度くらいだった。
駅に向かって歩き始めながら、 昨日寝入り端に沖田を振り返って見た女のことを思い出した。 カタン、 と記憶の箍がゆるんだ。 咄嗟に振り返って辺りを見回したがそれらしき姿はない。
何てことだ。 ……麗子だ。
沖田は、 愕然となる。
あれは麗子じゃないか……
無視されたと思って、 怒って行ってしまったに違いない。
しかし、 何で麗子が乗っていたのだろう。 前の方の席にいたということは、 多分、 乗り込んだのも先だということだろうから、 どう転んでも僕に付いてきたというような可能性はなく
(出発の二時間前までは、 本人でさえドリーム号を利用するとは思っていなかったのだからなおさらだ)、 まったく偶然に一緒になっただけなんだろう。
沖田は駅に向かって駆け出す。 同じバスに乗っていたのだ。 どちらに行ったのか分からないが、 そんなに離れているはずはない。
京都駅の巨大なコンコースに飛び込む。 切符売場、 改札口、 売店の前、 麗子の姿を探して走るがどこにも見当らない。 もう改札を通ってしまったのだろうか。
右手の大階段を見上げる。 かなり上の方にまばらな人影。 一瞬駆け上がろうか、 迷う。 それとも、 そもそも駅に向かったのではないのか。
沖田は急速に焦燥感に捕らわれていく。 コンコースを出て、 どうしていいか分からないままドリーム号の発着場に戻って来ていた。
見失ってしまった。
胸の中にわら屑でも詰め込まれたみたいな気がした。 すぐ近くにいたはずなのに。
しかし、 何だって……。
「ドジ……」
沖田が空耳かと思いつつ振り返ると、 麗子がそっぽを向いたまま突っ立っていた。
「でも、 一体なんでレイがここにいるんだ?」
「いーから、 いーから。 男の子は細かいことを気にしないの。 たまたまよ。 ぐーぜん、 偶然。 あたしがいるのが嬉しくないわけ?」
「まさか。 びっくりしているんだよ。 僕自身直前までドリーム号で京都に来るなんて考えていなかったしさ……」
「そっかー。 お前、 俺を追い掛けて来たんだな。 白状しろよ、 どうやって俺がドリーム号に乗るの知ったんだ? とか言いたかったわけだ。 ふんふん、 いーわよ、
いわよ。 告白したげる。 本当なのよ。 ヒロのこと追い掛けてきたの。 愛を告白しようと思って。 感謝しなさいよね、 してる?」
沖田はあきれて麗子の顔をまじまじと見た。 ふん、 とでもいいたそうな、 こましゃくれた顔をしていたが、 いかにも麗子らしくて、 そして綺麗だった。 なんだか、
無理に子供っぽくしているようにも思えて、 言い返す気にならなかった。 麗子は沖田より二つ下だったから二十七歳のはずだ (九月の誕生日ですぐに二十八なのだが)。
それが、 まるでいきなり十代のころに戻ってしまったみたいだ。 それならこちらも調子を合わせなくちゃ、 だ。 今気がついたが麗子にはまったく化粧の跡もない。
もっとも、 バスに一泊したのだから無理もないのか……。 麗子とすれ違わずにすんだことでほっとすると、 腹が空いていることを思い出した。
「レイを探して走り回ったんでおなかが空いたよ。 何か食べようよ」 とりあえず誘ってみた。 麗子は、 今度はすっかりおとなしくお嬢様風ににっこり微笑んで頷いた。
ご馳走になろうという魂胆に違いない。 駅に戻って見回す。 たぶん地下に何かあったはずだ。 エスカレーターで降りていく。 駄目か。 店が閉まっている。 いや、
PRONTO が開いていた。 人がいっぱいだ。 座れるかな? 麗子の顔色を窺う。 まぁ、 いいだろう、 というような表情を確認して沖田は店に入る。 実際に店に入ると二人用の席が丁度空いており、
座ることができた。 オーダーしたナスとベーコンのスパゲティが出来てくる。 麗子はクロワッサンを食べている。 始めに肝心な点をやはり確かめてしまおう、 と沖田は思う。
「ところで、 僕は尾道に行くつもりなんだ。 君はどっちへ行くつもりなんだい?」
途端に麗子が顔をまっ赤にして言った。 「もちろん、 ヒロと一緒に行くわよ。 なんでそんな意地悪言うのよ」
3 回 想
沖田弘明は幼年期をずっと、 東京の文京区で過ごした。 麗子と初めて出会ったのは、 弘明が小学校四年の時だった。 だから (驚いたことに)、
ざっと二十年来の付き合いだということになる。
その、 もうすぐ五年に進級という年の春の日曜日、 しばらく空き家だった隣の家は昼過ぎごろからなにやら騒がしくなった。 一家が新しく引っ越してきたのだ。
退屈していた弘明はすぐに、 外に見物に出ていったものだった。 春の雲が空に高く気持ちのいい日だった。
若い夫婦とその友人らしい二、 三人の男が、 大きなトラックから箪笥や机を後からあとから運び出して行く。 ほどなく弘明は、 忙しく働く大人たちの足元をとことこ歩きまわっている少女を見つけ、
その姿から目を離すことができなくなっていた。 少女は引っ越しの手伝いをしたいらしく、 小物を持って大人の間をうろうろしているのだが、 父親は微笑んではいるものの忙しそうで相手をする暇もなく、
母親は時折厳しい声で少女を叱っていた。 僕より少し小さいかな、 弘明はそう見当をつけた。
弘明は、 その子の母親が食器や小さな箱などを運ぶために玄関から出てくる度に、 弘明の方をちらりと見やるのに気が付いた。 好意的な視線ではなかった。
何かに苛々している。 弘明は少々びくついて腰が引けたものの何とか踏ん張った。
家族に相手にしてもらえない少女の方も、 すでに弘明に気がついている。 初めは門の蔭に隠れるようにしていた。 弘明も引っ越しを見物しているのは明らかだったが、
何気ないフリをしていた。 少女も弘明のことなど気がつかないフリをしている。 やがて見え隠れしていた少女の姿がさっぱり見えなくなった。 弘明はやきもきしてきた。
どうしても我慢が出来ずに、 大人がいない瞬間を見計らって生け垣まで近づいた。 伸び上がって、 庭を覗き込んだ。 そして、 生け垣の下の植え込みに隠れて弘明を窺っていたに違いない当の少女と、
至近距離で顔を見合わせることになった。
その日の夜、 夕食後大分遅くなってから新しいお隣の一家が揃って挨拶に来た。 簡単な挨拶だけだったが、 両親に連れられて少女も玄関先に現われた。
ほぼ同世代で、 家族構成も相似する二組の家族は、 すぐに打ち解けた。 弘明は、 少女の母親の視線が気になったものの、 少女のことばかり見ていた。
父親の蔭に隠れていた少女は、 しきりに父親のブレザーの裾を引っ張っては早く帰ろうと合図を送っていた。
やがて弘明は、 その一家の一人娘 麗子 を新学期から同じ小学校に毎朝連れていく役目を押しつけられることになった。 どうやら馬の合うらしい父親同士が、
「ひとつ娘が馴れるまではよろしく」 「いやうちのヒロで役に立つなら」、 などと勝手に取り決めたもののようだった。 弘明は一応、 そんなの面倒臭いや、
などと言ってはみたが、 それ以上特に反対はしなかった。 むしろ、 麗子の母親が反対するのではないかと心配だった。 弘明は直感的に、 彼女と自分とは馬が合わないと決めてかかっていた。
少女の母親は反対しなかった (少なくとも面と向かっては)。 しかし、 弘明は内心不安だった。 おそらく、 夫が言い出したことを大した理由もなく撤回するのは難しい、
というようなことでもあったのだろう。 それとも別の理由があったのか。 弘明には分からなかった。
新学期が始まって、 第一日目の朝はいつもより二十分も早く家を出た。 両家の親が心配したのだ。 麗子の足では弘明の二倍の時間を見込んでおく方が安全だ、
と考えたのだ。 弘明と麗子は二人の母親に見送られて歩きだした。 弘明は言い付け通りに麗子の手を取って歩いた。 麗子の手は、 小さくて柔らかく、
しっとりして少し冷たかった。 二人の両親が見ていると分かっている間は、 弘明も麗子もまっすぐに前を見て整然と歩いた。
手をつなぐことはすぐにやめてしまったが、 麗子は弘明によくなついて、 やがて二人での登校はすっかり習慣となった。 二人とも一人っ子だったが、
二人でいると兄と妹のように見えた。 よく鬼ごっこや隠れんぼをしながら登校し、 遅刻しては叱られた。 しかし、 そんな幸福な時期はそう長くは続かなかった。
麗子と同じクラスの女子が二人、 麗子を朝誘いにくるようになった。 麗子はそれを断われず、 弘明はいきなり二人の間に割り込んできた、 こましゃくれた二人に腹をたてたがどうしていいのかは良く分からなかった。
二人は何故か、 弘明に敵意を持っているように見えた。 乱暴な男子なんかと一緒に登校しない方がいい、 と麗子に耳打ちしているのを聞いた。 頭に血が上ったが、乱暴な男子ではない
(はずの) 弘明は、 つい我慢してしまった。 それでも割り切れない弘明の怒りは、 麗子に向かっていった。 その結果は半ば、 弘明が乱暴な男子であることを、
証拠立てることになった。 弘明は麗子と初めて口喧嘩をした。
ある日麗子の母親から、 家の前で呼び止められた。 麗子はもうすっかり通学路に慣れたし、 同じクラスのお友達が毎朝迎えに来てくれるから、
これまでのように一緒に行ってくれなくていいのよ、 と言った。 弘明は直感的に、 この女が頼んだのであの二人が割り込んできたのだ、 と思った。
「そんなことないよ、 おばさん。 僕が一緒に行くよ。 その方がいいよ」 弘明は反射的に応えていた。 弘明は、 あの二人が遠回りしなくては麗子と一緒に行けないことを知っていた。
何かが不自然だった。
麗子の母親はにっこりと笑った。 彼女が弘明に笑いかけたのは初めてだった。 弘明は彼女が笑いかける訳が分からなかった。 急に怖くなった。 なにか背筋に冷たいものが触れるのを感じて、
跳び退くように家の中に駆け込んでいた。
翌々日から、 二人組は現われなくなった。 弘明はその朝、 いつものように麗子を呼びに行った。 麗子が出てきた。 母親とは努めて目を合わせないようにした。
また、 弘明と麗子のふたりに戻った。 弘明は緊張していたが嬉しかった。 何かに勝った時と同じ感じがした。 しかし、 何もかもが元に戻ったというわけではなかった。
何かが損なわれていた。
いや、 何か新たなものがそこに、 弘明と麗子の間に、 あった。 弘明は、 それを名付けることも触ることも出来なかった。 それは、 なにか空気のようなものだった。
ある種の気体のようにふたりを包んでいた。 暑過ぎるか寒過ぎるかする空調の壊れた部屋のように、 ふたりの間にぎこちない空気を生み出していた。 それはある種のボーダーラインのようなものだった。
弘明にも麗子にもそれをどうすることもできなかった。 いずれにしても、 それはやがて訪れるはずのものだった。
そして弘明は、 小学六年になっていた。
その時期、 弘明と麗子は互いに距離を置いていた。 自然にそうなっていたのだ。 弘明は同学年の男同士で野球をしたり、 どこかに出掛けたり、 プラモデルを作ったり、
というごく普通の毎日を送っていた。 麗子もピアノのレッスンや女の子同士の遊びに夢中になっているようにみえた。 朝誘い合って登校することもなくなっていた。
顔を合わせるのも一週間に一、 二度ということが多くなっていた。 隣同士であっても、 意識して会おうとしなければ、 それほど顔を合わせることはなかった。
たまたま朝一緒になることもあった。 そんな時は、 昔通りの二人に戻れるような気がすることもあった。 しかし、 それは錯覚に過ぎなかった。 ボーダーラインは確かに存在した。
弘明は、 そのラインの向こう側で、 麗子が急速に変わっていくのを感じていた。 何が変わってしまったのか、 弘明には正確に言い表すことが出来なかった。 それを考えだすと混乱してむしゃくしゃしてきた。
麗子の姿を見る度に、 体の奥深いところで何かが疼く、 そんな感じがした。 それは微かな感覚だった。 体を動かし駆けずり回っていると忘れていられたが、 麗子に会い、
遠くから姿を見掛けるだけで、 体の奥のどこかに微熱が発生し、 方向づけられ、 加速する 麗子に向かって 、 そんな感じがしていたのだった。 弘明は、
当時そんな気持ちを言葉にすることはおろか、 意識することもうまくできなかったのだが。
弘明が中学に入って二年目の年の夏のある日の夜、 父さんの仕事の関係で我が家は引っ越すことになった、 と母から聞いた。 夏休み中に引っ越す、 という。 弘明はどう言ってよいのかわからなかった。
僕は引っ越すのはいやだ、 そんな言葉が口を突いて出た。 母はなだめるように説得したが、 弘明は強情に引っ越したくないと言いはった。 しまいに口げんかになった。
弘明は外に飛び出して麗子の部屋の明かりを見上げた。 綺麗な満月が空に昇っていた。 弘明は、 三十分近くもただ通りに立って月を見上げていた。 そこに父が帰ってきた。
弘明にも父が引っ越さざるを得ない訳はわかっていた。
「どうした」 と、 父がにっこりと微笑んだ。
翌日の夜、 弘明は麗子に電話をした。 麗子は努めて冷静に話を聞こうとしてはいたが、 途中から嗚咽が交じり言葉にならなくなった。 両親が離婚しそうだ、 と小声で言うのだった。
弘明は途方に暮れた。 悪い時に悪いことが重なるなんて。 麗子は、 しばらく前から両親の不仲で悩んでいたらしい。
「レイ、 外に出てこないか?」
「うん。 家の前に出て待ってる」
「俺もすぐ行くよ。 待ってて」 弘明は足がもつれるような感じで家を飛び出した。
麗子はしょんぼりと肩を落として家を出てきた。 弘明と麗子は、 ゆっくりと夜道をあてもなく歩きながら話をした。 大分前からお父さんとお母さんが喧嘩するようになっていたの、
と麗子は言った。 そしてここ二、 三か月で急激に両親の関係が悪化してしまった、 と言う。 麗子はどちらの味方も出来ずに苦しんでいた。 すでに父親が麗子を引き取り家を出る、
というところまで話が進んでいたのだ。 弘明は父親の仕事の都合で名古屋に引っ越すことになった、 と説明した。
それからの半月余りは誰にとっても辛い日々だった。 結局父親が麗子を連れて家を出ることになった。 残された麗子の母親の元には、 彼女の年老いた母がやって来て一緒に住むことになった。
弘明は、 無力感に打ちのめされてしまった。 ずっと避けていた麗子の母親と、 何とか話し合おうとしたのだが、 相手の感情を逆撫でしただけだった。 弘明には彼女が理由もなく自分を嫌っているとしか感じられなかった。
彼女が実はとても苦しんでいて、 (弘明のような子供にまで) 八つ当たりをしていただけなのかも知れない、 という可能性に思い当たったのはずいぶんと後になってからのことだった。
その半月余りの出来事は、 麗子にも弘明にもある種のしこりとして残った。 二人とも自分で自覚している以上にダメージを受けていたのだ。 弘明は、 二学期が始まる前に引っ越さねばならなかった。
その半月後、 麗子も父親と共に世田谷に移った。 しばらくは弘明も麗子も自分の生活を軌道に乗せることで精一杯で、 手紙のやり取りや電話も途絶えた。 さらに、
一年後麗子は父親と一緒に暮らしていた家を出て、 母親のもとに戻った。 弘明にはその辺りの詳しい事情は分からなかった。 弘明とすれ違いで麗子は元の家に戻ってきたのだったが、
弘明は麗子がさらに遠くなってしまうように感じた。 電話をかけても母親がでると、 時にヒステリックになり、 取り次いでくれないときもあった。 弘明は、 次第に麗子のことを考えるのが苦痛になるようになっていた。
それでも付き合いが続いたのは、 高校一年の夏の終わりに麗子が久しぶりに送ってきた一通の手紙のおかげだろう。 それから麗子は、 しばしば手紙を送ってくることになる。
「お元気ですか」 と麗子は慣れない万年筆を使って書きにくそうに書いている。 「私は元気です。 でも、 ヒロちゃんともずいぶん長い間会っていないし、 少し淋しいかな。
私だけみんなと離れて私立の中学に進学してしまったことを、 少しだけ後悔することもあります。 でも、 今では何人か友達も出来て、 元気にやっています。 ヒロちゃんはどうですか。
高校生活は楽しいですか。 また会いたいですね。 いろんなことを話しましょうね。 それから、 お母さんのことは、 許して下さいね。 お父さんとのことがあって以来、
何でも悪い方に考えてしまうのです。」
弘明は、 その手紙を一日に十回はこっそり広げて読み返した。 朝起きて机の引出から出して読み、 鞄に入れて持っていった高校の校舎の蔭でまた広げた。 手紙をもらったことが嬉しかった。
信じられない気がした。 何度も繰り返し読んで、 それが麗子からの手紙だと確かめた。 手紙を持っている鞄が目に入るだけで嬉しかった。 それでいて、 なかなか返事を書くことが出来なかった。
何回書き始めても全部破り捨ててしまった。 真夜中まで書きあぐんで眠れずに寝不足になった。
小学校の時の麗子の写っている写真を出して眺めた。 クラスの集合写真では麗子はお澄まししていた。 運動会の写真では玉入れをしている。 弘明はその小さな麗子の横顔を飽かず眺めた。
しまいにそんな自分に後ろめたさを感じて早く手紙を書かなくては、 と思うのだった。
結局、 手紙が届いてから五日目の夜、 弘明は公衆電話から麗子に電話をかけた。 麗子の母親が出た。 取り次ぎを断られる覚悟で電話した弘明だったが、 そっけないものの彼女は、
少し待つようにと言い捨てて電話口を離れた。 戸惑いを声に滲ませて麗子を呼ぶ母親の声が遠く聴こえる。 弘明はじっとりと手に汗をかいていた。 誰かが答える細い声がする。
心臓がどくん、 と鳴る。 階段を急ぎ降りてくるような足音が近づいてくる。 そして麗子が電話に出た。
「……ヒロちゃん?」 荒い息を押殺した麗子の声が、 意外なほど近く耳元をくすぐった。
「うん。 返事遅くなって……ごめんな」
「ううん、 いいのよ、 気にしてないわ」
「……手紙を書こうと思ったんだけど」
「それで……でも、 書けなかったのね?」
一瞬返事に詰まる。
「おれ、 手紙書くのなんか、 嫌いだもん」
麗子のくっくっくっと笑う気配が耳元に伝わる。 思ったより元気そうだった。
「勝手に笑ってろ。 お前の手紙なんか……」
「ごめんね。 違うの。 分かっているよ。 しばらくね。 声、 変わってないね」
「……そんなに急に変わるもんか」
「そうだね」
でも弘明には、 麗子が急に大人びてしまったように感じられた。 自分は何か馬鹿なことを言ってしまいそうだった。
「会いたいね」 と麗子が言った。
「……ああ」 弘明は急に情けなくなった。 何だか電話を切ってしまった方がましな気がした。 麗子はまだ中二だったが、 ずっと弘明より大人なのだ。
「会う?」 麗子が重ねて言った。
「いいけど」 努めて何気なく言った。
その週の日曜日の朝、 (中学時代の同級生の) 木村と遊びに行ってくる、 と嘘をついて弘明は家を出た。 電車を乗り継いで予定の駅で麗子と待ち合わせた。 改札口で待つ麗子の姿を見つけたときは足が震えた。
しゃんとしろ、 と心の中で自分を叱咤して弘明は強張った笑顔を浮かべたまま片手を高く上げていた。
弘明達は、 さらに電車に乗って伊豆半島のある駅で降りた。 麗子が海を見たいと言ったからだ。
海に向かって二人で歩いているうちに、 弘明は麗子と一緒に登校している頃の自分を少しずつ取り戻していった。 麗子はとても元気そうで、 時々生意気な口をきいたり、
弘明が始めたばかりのサッカーの話を楽しそうに聞いたりして笑った。 弘明はそんな麗子の久しぶりに会った姿を時折そっと盗み見た。 麗子は細身のデニムのパンツに運動靴、
チェックのシャツを着て、 まるで男の服装をしていた。 それでもシンプルな鎖のネックレスが襟首からのぞき、 あっさりした色の口紅を引いているのが分かった。
潮の香りがしてきた。 麗子が駆け出した。 弘明がすぐに追いつく。 細い路を一端上って、 降りたところはもう浜だった。 季節はずれの海岸には人影もない。
曇天が遠く彼方で深い紺の海と交わっている。 所どころに緑の雑草が生えている砂地の浜を、 自然に手をつないで降りていった。 波の砕ける音と曳いていく音の繰り返しが古い記憶を呼び覚ますようだ。
しばらく二人は、 ただ立って海を見ていた。
弘明は握っていた麗子の手をゆっくりと離した。 急に決まり悪くなったのだ。
弘明は久しぶりにつないだ麗子の手の感触と、 同時にあの奇妙なボーダーラインの感触を思い出していた。 それは、 いままた弘明と麗子の間に、 あった。
弘明は、 麗子の手を離したことを少し後悔した。
「つまんないのね、 秋の海って」
麗子は弘明から二三歩離れて立ち、 少し意地悪くそう言った。
「そんなものさ。 そんなこと、 分かってたさ」 弘明は努めて何気なさを装った。 乾いた砂の上に腰を下ろす。
「あたし、 分かんなかった」 麗子も並んで腰を下ろした。 海風が頬をなでていく。
「OK、 じゃ、 これで分かっただろ? それが分かっただけでもこうして連れて来たかいがあったね。 波がポチャポチャ、 風がそよそよ、 それだけさ。 ロマンチックでもなんでもない。
つまらんものさ、 秋の海なんて」
「……グッときちゃうようなお話ね。 胸一杯に夢と希望があふれちゃうみたいだわ」
弘明は目をつぶって天を仰ぎ、 死んだフリをした。
「……でも本当に私たちだけで、 誰も来てないわ」
「あたりまえさ。 今頃海が見たいなんて言い出すのは麗子くらいなものさ。 付き合う俺も相当なものだけれど……」
「本当にどうもありがとう。 ヒロってとてもやさしいわ」
「え? ……いや。 まあね。 それほどでもないけど……さ。 まぁ、 俺もひまなヤツだよな……」
「恋人も出来ないしね」
弘明は思わず麗子を睨みつけた。 麗子は素知らぬ顔だ。
「でも、 不思議ね」
「…………?」
「波の音、 こんなに大きかったかしら。 生きているみたい。 寄せては返し……。 地球が赤ちゃんだった頃から繰り返してきたのね……」
「……うん。 ま、 いいんだけどね。 ちょっと違うと言えば違うんだな。 本当は地球には最初海なんてものなくてね。 すごく熱かっただろ? だから、 空気中にすごい量の水蒸気としてね、
まぁ、 あったりなんかして、 だから、 つまり海が出来たのは……」
「もぉ、 いやーね! あたしが言ったのはね……。 ううん、 もぉ、 やめたっ! 教えてあげないっ」
「な、 なんだよ。 なに怒ってるんだよ。 俺は何も、 つまりそんな……怒ることなんかないじゃないか。 ……ちぇ」
麗子が少し口を尖らせて弘明を見る。
「ふん。 やれやれ、 よいしょっと……」 狼狽しかかった自分を隠すように思い切って立ち上がる弘明。
「どこへ行くの……?」 麗子も勢い良く立ち上がった。
「どこっ……て。 波と、 戯れに」
「待って、 怒らないでよ」
「誰が……」
別に怒っちゃいないさ……背を向けたままそう言おうとした弘明の腕を、 麗子が引き止める。 腕を掴んだ 思いがけぬ強さで。
一瞬ためらって、 弘明は麗子を振り返った。
つづく