天国にいちばん近い映画
ファンタジーとしてのユートピア
ここにひとり、とても愛らしく、心優しい少女がいる。少女を愛した大人たちが、彼女を主人公にしてお話をつくった。
映画『天国にいちばん近い島』は、そんな風にして出来上がったに違いない。
テーマはユートピア探し。
同時に、愛と信頼の物語でもある。同時にという訳は、後で説明しよう。
ただし(と付け加えなければならない)、この物語は、あくまでも心優しい大人たちが、愛する少女のために作ったファンタジーだ。ユートピアも愛と信頼も、そのファンタジーの枠組みを取り除いたときには、おそらくはもろくも消え失せてしまうだろう。
彼ら、大人たちはそれを百も承知している。
“さようなら、幼い日々
ありがとう、天国にいちばん近い島”
そんな彼らだからこそ、ラストにこんなメッセージを添えたのだ。
それはともかく、大林宣彦監督・原田知世主演。『天国にいちばん近い島』の万里(知世)がみつけたユートピアをぼくも探しに行くことにしよう。
「ありがとう、タロウさん……わたし、見つけました! 見つけました、わたし……わたしの『天国にいちばん近い島』を……」
映画のクライマックスシーン。美しい砂浜で日系三世の青年タロウに、紙芝居を見せてもらううち、泣き出してしまいながら言う万里の言葉だ。ぼくもここでは思わずぐっと来て……。ケ、傑作ジャ! と心に叫んだところだが、万里が見つけたというのは正確には何だったのか。これは必ずしも明確ではない(いや。分かる人には明確そのものなんでショーがね)。
ここにはひとつの仕掛けがある。このファンタジーを支える仕掛けが。
「この河をね、ずっとずっと下って行くと、大きな大きな海に出るんだよ……。その海をね、ずうっとずうっと南の方へ行くんだ……。そうするとね、地球のもう先っぽのところに、真っ白な珊瑚で出来た小さな島がひとつあるんだよ……」
これが、幼い万里に父が語ったオトギ話『天国にいちばん近い島』だった。
「そこはね、神様のいる天国から、いちばん近い島なんだ……。地球のどこかで、神様をほしがっているひとがあると、神様は、いったんその島に降りてきて、そこから、世界中に出かけてゆくんだよ……」
これはひとつのユートピアに他ならない。
「そうそう。天国にいちばん近いから、いつもお日様が当たっていて、明るくって、とてもあたたかなんだ。だから、その島のひとたちは、みんなみんな、いつも幸せなんだよ……」
幼い万里は父と約束する。いつの日か、一緒にその島へ行こうと。
だが、その父が死んでしまった。万里は十六歳になっていた。地味な、暗いと言ってもいい少女になっていた。物語は、ここから始まる。
ひとりになった万里の、ユートピア探しが始まるのだ。それは父の死によって引き金を引かれた青春の放浪だ。例えそれがどんなに幼いものだとしても。
ニューカレドニア。この世のものとは思えないほど美しい風景。日系三世のタロウ、偽ガイドの深谷、現地の人々との出会い。そのどれもが万里に優しく語りかけ、接してくれた。ここが天国にいちばん近い島に違いない。だって他に考えられるだろうか……。
でも違う! やっぱり違う!
ヌメア、イル・デ・パン、そしてウベア……。万里は必死で父の語った「あの島」を探す。
「もしその島がわたしの目の前にあったら……わたしにはすぐにここだとわかります。お父さんとの約束の島ですから……」
でも、父の語った島とは、本当にニューカレドニアなのだろうか……いや、そもそも、本当にそんな島がこの地球上にあるのだろうか……?
万里の旅は、その思いを胸に秘めたまま続いていく。ぼくたちも、同じ問いを抱えたまま、万里の旅を追わねばならない。
「お父さん……万里はとうとうこんなところまでやって来たわ……ここは確かに美しいし自然も人間も、地上のものとは思えないわ……でも分からない……お父さん、教えて……『天国にいちばん近い島』は、いったいどこなの?……」
砂浜にふいに倒れる万里。
ユートピアなんて、やはりどこにもないのだろうか。
飛行機に乗り遅れた万里は、ウロウロと彷徨い疲れ果てたあげく、タロウに助けられ、彼の家に世話になる。タロウの家での生活は、どこか日本を思わせる。懐かしい日本を。ドラム缶のお風呂に浸かって、万里は心の底から思い切り泣く。
この後、戦争未亡人のテイとの出会いや、偽ガイド深谷と昔の恋人圭子との愛の成就を見届けるなどの経験の中で、少しずつ変わる万里。いよいよ帰国の日も近付く。
そんな時----。
『コレデ、日本ヘ、カエッテクダサイ。タロウ』との手紙と一緒に現金が。
しかし、それはタロウの夢----日本への旅費になるはずのお金であった。万里はそのお金に手をつけず、テイに頼んでタロウの元にお金を返すため、もう一度ウベア島に行かせてもらう。
タロウにお金を返した後、万里は、タロウの紙芝居(彼が現地の子供たちに語ってやっていたもの)を見せてもらうことになる。
そう、これが、始めに述べた、このファンタジーの仕掛けなのであった。
美しい美しい砂浜。坐っている万里、タロウ、ユキコ……。万里にとって、タロウに頼んだ紙芝居は、おそらく最後のわがままのつもりだった筈だ。ユートピアは見つからなかったけれど、私は多くの人の優しさに助けられ、教えられた……万里はおそらくそんな心境になっていただろう。そんな万里に、タロウは語り始めたのである。
「この海を……ずーっとずーっと北の方へ向かっていくと……ちっちゃな、タツノオトシゴのような格好をした島があります。……それは日本という島です……」
万里は、ハッとする(そしてぼくたちも!)。
「その島にはとっても美しい、見たこともないようなお花が、いっぱい咲いているのです……春には春の花が……夏には夏の花が……秋には秋の花が……そして冬になると空から雪という、冬のお花が降ってくるのです……」
万里の目から涙がこぼれ落ちる。
どうやら、ユートピア探しは終わってはいなかったらしいのだ……。
「冬になるとね、神様が、一年中の汚れた地面を、雪で真っ白に覆ってくださるんだ。……雪が降ると、誰でもみんな、キレイな気持ちになって、神様みたいになるんだ……だからその島の人たちは、みんなみんな、とても幸せなんだよ……」
仕掛けは見事に働いた!
「ありがとう……タロウさん、わたし、見つけました!」
約束は果たされたんじゃなかろうか。
「いま……いま……タロウさんと、わたしの、目の前にあります! ここが、わたしの『天国にいちばん近い島』です!」
万里がそう叫ぶとき、映画冒頭にお父さんが語る『天国にいちばん近い島』のお話と、タロウの語る『日本』が確かに重なり合い、また美しい対照を見せて反響し合う。
それは語られるユートピア『ニューカレドニア=日本』の間だけではなく、それを語る人間『父=タロウ』との間にも同時に起きている。
失いかけた父とそのユートピアは、約束の地で出会ったタロウという青年によって見事日本に投げ返された。万里とタロウのそうしたあり方。現実にはニューカレドニアは(もちろん日本も)天国にいちばん近い島ではなかったにもかかわらず、その時、万里には蜃気楼のように『天国にいちばん近い島』----あの島が見えてきただろう。いや、驚いたことに、今やそれは目の前にある。ここ(ニューカレドニア)であり、日本でもあったのだ!
ユートピアは、タロウとの愛と信頼の中に(同時に!)あったのである。
これは、そんな物語である。
これで物語は終わる。
だが、ぼくたちには、もう一つだけ、することが残っているようなのだ、やっぱり……。
そう、あのメッセージを、もう一度送って終わるのが分相応というものなのだろうから。
さようなら、幼い日々
ありがとう、天国にいちばん近い島、と。
ぼくたちの物語も、こうして終わる。
(一九八五年一月十日 オリジナル原稿脱稿)
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