29/04/2021

‍ 先週、キネマ旬報シアターの大林宣彦回顧上映で『この空の花 長岡花火物語』を観た。二度目だった。そして、二度目にしてようやく、この作品の良さを知った。初めて観た時には、ぼくはわかっていなかった。ちょうど出版されたばかりの『大林宣彦メモリーズ』をその場で買った。


‍ 振り返ってみると、小説の世界で、庄司薫がいて、村上春樹がいたように、映画の世界には大林宣彦がいて、宮崎駿がいた。なんだ、当たり前のラインナップじゃないか、と言われそうだが、その当時のぼくにとっては、それぞれがかけがえのない発見であり、出会いであったし、その出会いがあってこそ、その後もずっと親しむことになった大切な作家たちなのだ。(同じように、学問の世界で大切な人たちとして、河合隼雄がいて、加藤典洋がいた。お二人とも既に向こう側に逝かれてしまったが。)


 更に思い返せば、庄司薫さんには、1977年に『ぼくの大好きな青髭』刊行時に、紀伊国屋書店のサイン会に並んでサインをもらった際にちょっと話をして握手をしてもらった。二度ほど学園祭に潜り込んで講演を聞いたこともある。村上春樹さんは、2019年12月に紀伊國屋サザンシアターの朗読会のチケットに当選し(遠くから)姿を拝見した。河合隼雄さんは、やはり一度講演会に行き、講演を聞いた。加藤さんは、新刊の出版に際して行われたジュンク堂のイベントに何度か出て、質問したり、サインをもらったりしたし、Web上で募集があったなんでも相談に質問をおくったら4回全て採用されて本に収録されている。宮崎駿さんには直接お会いする、というか、遠くから眺めたことも残念ながらない。そして、大林宣彦さんには、ぼくが書いた「尾道ラビリンス」という小説を読んで欲しくて、1995年に同人誌に載せてもらった時点で、送ったら読んでくださってハガキでお返事を下さった。(それを今回、追悼の意味をも込めて、ご覧いただければと思う。)
 最初に頂いた葉書の時はちょうど、当時の新作の「あした」を撮影中だった。「尾道ラビリンス、楽しく読ませていただきました。」と書いてあって、それだけで、ほんとかなぁ、と半信半疑な気持ちもありつつ嬉しかった。「尾道ラビリンス」は、『海燕』(福武書店刊行・既に廃刊)という文芸誌の同人誌評に取り上げられて随分と褒めてもらったことがあったが、当時のぼくは嬉しくもあったが、だからと言って何かアクションを起こすでもなかった。ただ、尾道ラビリンスは、大林映画にインスパイアされた、大林映画へのオマージュのような小説だったから、ぜひ監督には読んで欲しかったのだ。

 二枚目と三枚目の葉書を頂いたのは、2005年に東邦大学を辞めて、実家のある柏に戻ったのだけれど、それに合わせて、小説集『土星の環』と、エッセイ集『雑想ブック』を自主出版したことがきっかけになっている。土星の環には、改稿した「尾道ラビリンス」を収録し、雑想ブックには「時をかける少女」論や、「天国にいちばん近い島」論などを載せた。そして、それを出来た順に監督に献呈した。有り難いことに、その度に葉書を頂いた。それが、以下に載せたものなのだった。

 その監督も昨年向こう側に逝ってしまわれた。誠に寂しい。
 心は、さびしんぼう、である。
 監督の映画は、その最初の出会いはご多分に漏れず「時をかける少女」だった。(実際には、その前に「ねらわれた学園」とか観ていた筈だが、それは“出会い”にはならなかった。)
 当時の角川映画は、大作映画のほかに時々、アイドル映画等の新作を二本立てで公開したりもしていたのだが、この時もそうで、薬師丸ひろ子の確か「探偵物語」の併映作品として、営業的にはいわばレコードのBサイド扱いで公開されたのが「時をかける少女」だ。ぼくなども、薬師丸ひろ子の映画を観にその二本立ての映画に行ったのだが、出てきた時には併映作品の主演の女の子(確か、原田知世、とか言った)のファンになって出てきたのだった。
 もちろん、その主演の可憐な少女に恋しただけではなく、何よりもその作品の監督の手腕に惚れていたのだった。
 それから、遡って「転校生」を観たり、「さびしんぼう」や、「野ゆき山ゆき海べゆき」「彼のオートバイ、彼女の島」「異人たちとの夏」「ふたり」‥‥様々な作品を折にふれ観てきた。
 その大林監督作品の多くが、いまDVDやBlu-rayで観ることができない現状がある。
 日本映画のDVDは外国映画に比べて不当なほど高く、ぼくも買い揃えないままになった作品が多い。色々な事情があるのだろうが、もっと安価に提供し、まずは作品を観てもらうことが次の映画ファンを、映画作家を育てることに繋がるはずなのだが。


‍ 一度、全く幸運なことに、確か2000年前後のことだったと思うが、小さな映画ファンの集まりに参加して、大林監督の話を聞く機会があった。本当に20名くらいの集まりだったか。その時に、よほど、「尾道ラビリンス」を書いたトコロと申します、と言おうかと思ったが、言えなかった。
 なんだか、恥ずかしかったのだ、きっと。それとも、なんというのか、自分を売り込むようなことになるのが、嫌だったのか。ということは、十分に売り込む下心があったからなのだろうが。
 今では、ちょっと後悔している。
 あの時に、やっぱりちゃんと挨拶だけでもしておきたかったな。

‍ 売り込むとか、売り込まないとか、そんな小さなことではなく、自分が好きになった人に、会う。声を聞き、姿を見て、できれば話をする。それはとっても大事なことだと思うからだ。
 講演会の中身は既にさっぱり覚えていないのだが、河合隼雄さんが壇上を降りて、ゆっくり歩いて退席されるときに割に近くを通られた。そのがっしりとした体、伏せ目がちの顔。今でも印象に残っている。ぼくにとっては、あれが河合隼雄なのだ。

 たくさん本を読んだり、大林監督ならたくさん映画も観て、そうしたら監督自身にも会ってみたくなる。というか、とにかく見てみたくなる。遠くからでもいい。ああ、あの人か、と。

‍ そして、作品と作者の像を重ね合わせている。そのズレや、ズレのなさ、をも含めて。

‍ やがて、ある種の納得がやってくる。ぼくらは何かを受け取る。

‍ 大林監督、大変お世話になりました。いっぱい良きものを頂きました。
 どうも有難うございました。


【後記】
 実は、2000年頃にあったと書いた、大林監督を囲む映画ファンの集まり、の写真があった。撮ったという記憶があったので、探したら見つかった。経緯は、確か、ニフティサーブかなにかのパソコン通信の会議室のようなところで、大林作品のファンの方から情報を頂いたのだったと思う。
 だから、まったくの偶然。写真に写っている方々についてもまったくその時に初めて会った方々ばかりで、今となっては名前もなにもわからない。ここに記して、お誘いいただいたことにお礼を述べる。また、写真の掲載についても、ご容赦願う。

 この春、キネマ旬報社から出版された「大林宣彦メモリーズ」(5,600円+税)

584ページのヴォリュームの大型本。

 キネマ旬報に載った対談や記事に加え、大林映画に関わったスタッフ、キャストへの最新のインタビュー、アンケートなどを満載。

大林宣彦監督からの葉書。表面。『この葉書を書き終えた後で、「尾道ラビリンス」を読み返して居りました!』の言葉が嬉しい。

まったく幸運なことに、たまたま大林監督を囲む映画ファンの集いに参加することができた。
その時に聞いた、監督の映画制作に対する姿勢は誠に印象的だった。


ぼくはこのとき、40代の半ば、くらい。監督の髪も黒かった。