Saturn`s Ring
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第61回 昭和44年上半期 芥川賞の選評から
                               (庄司薫に言及のある部分の抜粋)

三島由紀夫 評
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」と田久保英夫氏の「深い河」の二作に賞が与えられたことは、私にとっては勿怪の幸いであった。私はこの二作の間で非常に迷っていたからである。
「赤頭巾……」はケストナーの「フェビアン」を想起させる、或る時代の境目に生まれた若者の、いろんな時代病の間をうろうろして、どの時代病にも染まらない、というところに、正に自分の病気を見出し、しかもそれが病名不詳で、どう弁解してみても説明してみても、医者にもわかってもらえない病気の症状、現代の時世粧をアイロニカルに駆使しながら、「不安定なスイートネス」の裡に表現した才気あふれる作品だと思う。目はしのよく利く、物の裏もよくわかる、自己風刺の能力もある、それで病身なら人の同情も呼べようが、誰も同情してくれない健康な若さ。……この困ったものを、困った風に饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見るところや、教育ママに路上でつかまるところなどは、甚だ巧い。
 (後略)

丹羽文雄 評
 (前略)
 庄司薫君の「赤頭巾ちゃん気をつけて」は面白かった。よい小説、面白い小説、うまい小説、というふうに私は自分だけに分類しているが、面白い小説のジャンルでは群を抜いていた。これはこれでよろしい。
 (後略)

石川達三 評
 (前略)「赤頭巾ちゃん気をつけて」についても種々の疑問があって、私は推薦に躊躇した。
 (中略)
 庄司君の当選作と後藤明生君の「笑い地獄」にはいろいろな意味で問題があると思った。前者は甚だ饒舌的で、あり余る才気を濫用したようなところがあり、また日常的な通俗さを無二無三に叩きこんで、ユーモア大衆小説のようでもある。作家はこういう形をとらなくては現代の複雑な生活の相を捕らえ得ないのであろうか。小説は今後このような方角にむかって変質していくのであろうかということをも私は考えてみたが、その疑問をまだ解決し得ないので、この作品を特に推薦することにはためらいを感じた。この作者の今後の仕事を時間をかけて見ていきたいと思う。
 (後略)

瀧井孝作 評
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、現今の学校卒業生の生活手記で、十八歳の少年にしては余りにおしゃべりだが、この饒舌に何か魅惑される。たぶらかされる面白味があった。素肌に手術着だけの女医、さくら餅を一と鉢たべてしまう学校友だち、銀座の人ごみの赤頭巾の童女、しまいの幼なじみの女の子と逢う場面など、次々に構成も面白く、繊細な美しさがあった。筋のない小説らしい。
 (後略)

舟橋聖一 評
 (前略)
 庄司薫も、書き出しから、ある病院の女医さんに生爪を剥がした指の治療をしてもらうあたりまでは快調なタッチで、わかりやすく読ませる。高校生らしい純情と不純が巧みにないまぜられている。

大岡昇平 評
 今期は、よい作品が多かったと思います。
 当選の「赤頭巾ちゃん気をつけて」「深い河」のほかに、佐江衆一「青年よ、大志をいだこう」阿部昭「大いなる日」黒井千次「時間」が、甲乙つけ難い出来でした。「赤頭巾ちゃん」が、現代の典型の一つを、「猛烈」「最高」など流行語で書き表しているのに興味を惹かれました。
 病気のため銓衡の会合に出席できなかったので、この作品が「新しさ」という点で、芥川賞にふさわしいのではないか、と推薦しておきましたが、他の作品もよかったので、その中からもう一つ当選作が出たのは、当然の結果といえそうです。
 (後略)

井上靖 評
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」、田久保英夫氏の「深い河」の二篇いずれが受賞作になってもいいという気持ちで銓衡の席に臨んだ。そしてその席においても「赤頭巾ちゃん」の才能をとるか、「深い河」の危なっけのない手堅さをとるか、なかなか決心がつかなかった。最後に私自身は多少の不安はあったが、「赤頭巾ちゃん」にしぼった。不安というのは、作品全体から感じられる新鮮な感覚の中に、時折、汚れというか分別くさいというか、そうしたものが顔を出しているからである。
 結局、庄司、田久保氏の作品の受賞が決まり、私としてはたいへん結構であったが、あとになってみると、対照的な作品であるだけに、どちらか一篇にすべきであったという気持ちがないわけではない。庄司氏が未知数の面白さを持っているのに対して、田久保氏はもうできあがっている作家である。今後慎重に、自分の世界を深く大きいものにして行って頂きたい。
 (後略)

中村光夫 評
 (前略)
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、才筆には違いありませんが、僕は最後まで興味を覚えることができませんでした。高校生の手記の形をとりながら、ときどきひどく大人びた感想がでてくるだけでなく、作者がここで懸命に生かそうとしている(あるいは装うとしている)アクチュアルな若さが、遂に生動してこないからです。
 現代をこのような形で表現しようとする企図はたしかに独創的であっても、それはこのような饒舌を読者におしつける弁明にはならないでしょう。
 (後略)

川端康成 評

 (前略)
 庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、おもしろいところはあるが、むだな、つまらぬおしゃべりがくどくどと書いてあって、私は読みあぐねた。

永井龍男 評
 「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、すべて現在に取材しスクープし、そのためには作者のペンネームまで変えた。読み進むうち、この小説は二人以上の筆者による合作でないかと推理したが、結末の「あとがき」に到ると、そういう読者を予測したかの感想も添えてあった。「薫」というあやつり人形は巧みに踊るが、人形使いの姿が露出する箇所もあるのである。
 まことに気がきき才筆なことは確かだが、アイスクリームのように溶けて了う部分の多いことも、この作品の特徴であろう。
 (後略)

石川淳 評
 車はうごかなくても、車輪がくるくるまわっているので、車がうごいているように見える、そこに「赤頭巾ちゃん気をつけて」のスタイルの面目がある、それがおもしろくないこともない。すなわち、おもしろくなくても、おもしろいように見えるというわけである。「ように見える」ということは錯覚であるが、まさにこの錯覚がこの文章の内容にほかならない。なにが書いてあるかなんぞというようなことどうでもよいことである。
 そういっても、スタイル一手で押しきってカンペキと申すまでには至らない、それほどお立派なものではない、ところどころに「ように見えない」部分がある。その部分では車輪のくるくるがとまって、車がうごいていないことを見せてしまう。一般の仕事では力を抜いてはいけないはずだが、このスタイルでは力をいれてはいけないようである。力を入れたために、ただいまのはやりそこないということになったのだろう。そのやりそこないの部分をふくめて、このスタイルは一つの価値を作っている。これを価値といってはあぶなっかしいというか。しかし、文学賞というものは、あぶなっかしくない価値ばかりあくせく追いかけるためにあるのではない。わたしはあえてこのスタイルを推す。
 (後略)