●『中央公論』第3回新人賞発表(昭和33年11月号)

 福田章二は一浪して東大に合格したが、入学前の19歳の春『蝶をちぎった男の話』を書き、東京大学教養学部学友会機関誌『学園』第15号に発表。翌年の二十歳の春(3月5日から10日にかけてだそうだ)に後に中央公論新人賞を受ける「喪失」の原型となった小説を書いている。「喪失」は東京大学教養学部文学研究会機関誌『駒場文学』第9号に発表されるが、実はこの「喪失」は新人賞を受ける「喪失」の原型とも言うべきもので、「喪失」は改稿され、二度書かれている。その二度目の「喪失」はおそらく4月に書かれ、審査員(伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫)を信頼していたから、と言われる中央公論に送られ、9月に受賞の知らせが入ることになる。しかし、その時には福田は、法学部への進学を決めており、いわば文学から「退却」した後の受賞決定だった。そのあたりの経緯は後日『狼なんかこわくない』に詳しく語られることになる。
 以下、「喪失」の選評である。

伊藤 「喪失」(福田章二)はとても計算した小説だけど、いよいよ自分が少女の頭の上にのせたメロンを撃つことになるあたりの持っていき方が、ちょっと読者の目をくらませているような気がした。
三島 もう一人の全然無意識な信二という男の子が、木の上にかけたメロンを撃っちゃっているけれど、あすこが何かチャチなような気がした。
伊藤 それから、自分が撃つことができなくなって、信二にかわるところで、主人公と的になる女の気持ちが変わるところが、もう少しはっきりわかってもいいような気がした。
武田 つまり、これは誠実不誠実という問題を青年が分析しているわけだ。
伊藤 ずいぶん頭のいい人だと思った。
武田 それは驚異ですよ。ちょっと驚いたな。
伊藤 これはすぐれた人だと思うよりしょうがない。
武田 キザとか、あまったれているとか、いろいろ批評が出ると思いますよ。しかし才能という点から言ったら、相当なものですよ。
伊藤 才能だな。はじめの話がはじまる静かな気配を、あんなに長く熱心に書かなくてもいいんじゃないか、と思ったけれども、それは、後を読めば、大体生かして使っている。
武田 小説といえるという意味では、これが何といっても一番でしょうね。イチゴ畠とかメロンだとか、芝生だとか、小説のムードをこわさない材料しか使っていないということは事実だけれど、何がムードで何が対象であるかということは知っているんだ。
三島 しかし、僕はやっぱりメロンそのものみたいな小説で、さわやかだったけれど、長すぎると思うな。短編ですっきりとまとまっていれば、非常にいい小説だな。文章はなかなかうまいですよ。メロンに赤い柄のナイフが刺さっているところ、ああいう何かフレッシュな感覚がずっとおしまいまで続いていて、非常に好感が持てたんだけれど、やっぱり少年サロン小説という匂いがちょっと強い。そういうサロン的要素をもっとすっきり抜いてあって、感覚的な誠実さだけにたよったほうが、小説らしいと思うんだけれどね。僕はこういう題材をこのぐらいの枚数で書くと言うことに、ちょっと現代の風潮ということを感じた。もっとくっきり、きれいな小さい水彩画みたいにまとまる小説だと思う。
武田 しかし、主人公のビッコの従兄に対する競争意識、劣等感の描写、若い人はいいなと思った。僕らはああいう感覚に鈍感になっているでしょう。それから、誠実不誠実という問題をこういう形で持ち出したのは、日本文学ではわりに少ない。
三島 ドイツの小説みたいでしょう。わりに文学青年臭はないですよ。僕はこれはきらいじゃないです。ただ、この感覚的な気持ちの良さと「家畜小屋」の気持ちの悪さを比べて、「家畜小屋」の気持ちの悪さに匹敵する感覚の気持ちの良さは、この小説にそんなにないんですよ。
伊藤 だけど、「家畜小屋」を書いている人は、自分の与えたもの、感覚の気持ちの悪さの強さは知っているのだけれども、効果の一つ一つを知らないで、盲目的に書いているところがある。「喪失」の作者は、効果の一つ一つを知っていて生かしているし、僕たちを若い人だけがわかる人生のある場面に案内するくらいの力はありますよ。それに、きれいなものは大体書きにくいものだしね。「家畜小屋」のようなものは、どっちかというと書きやすいんだな。福田さんの才能は感覚的なものよりも、それの整理の仕方だ。だから僕は、かなり高い才能じゃないかと思う。
三島 そういわれると、僕も好きになって来た。
武田 つまり小説というものが一つの計画であるという、一つの見方があるわけですよ。僕はずいぶんムチャクチャやっているけれども、人生に計画があるように、小説にも計画がなければならんと考えるんだ。そういう意味で、これは有閑小説のように考えられるかもしれないけれど、僕はそうは考えない。今は、あらゆる面から計画性ということを吸収して行かなくちゃならない時代だから、ことに「喪失」が、われわれにとって意味あるものと感じられるんじゃないだろうか。何も単なる文学の形式が完成しているということだけじゃなくてね。
伊藤 やっぱりこの人は、一番自分の仕事を知っていますよ。若い少年少女のサロンを書いても、作者の年齢--二十一ですか、とすると、無理なくて、自然じゃないですか。自分の持っているものを完全に使っているという意味じゃ、キザらしいものもそれでいいと思うんだ。
武田 キザだってちっともかまわない。
伊藤 僕は、ずっと読んできて、失望しかけていたが、最後にこれを読んで、これがあったので、今度はよかったという気がしたな。
武田 それじゃ、当選にしようじゃないか。伊藤さんがそこまで言ってくれれば。……三島君が大体その系統の先輩だから、三島君が非常に文句をつければ別だけどね。
三島 僕、そんなにきらいじゃない。僕は全部読んで、あまり文学的なものがなさすぎる、こういうことじゃ困ると思った。「喪失」はその中で唯一の文学的なものだということは認める。ただ、色が白くて七難隠しているような感じもありはしないかな。
伊藤 しかし、そういう危惧を消すくらいの強さはありますよ。ことにあの明確さ。
三島 それだけうかがえばいいです。
武田 しかし、「家畜小屋」も何かの形で一緒に出したらどうだい。色の黒いのは七難隠すで。
伊藤 この人、もっとやらしてみる必要があるな。
武田 同時に発表したら、日本だってすごいもんだろうということになる。
伊藤 外国に紹介すれば、「家畜小屋」なんて、ちょっとセンセイションを起こすんじゃないか。
編集部 すると、当選が「喪失」で、選外佳作として「家畜小屋」という形になりますか。
三島 それがいいんじゃないか。しかし、僕はもう一度、「喪失」の作者にかえすがえす言いたいんだけれど、一つの題材と枚数ということの関係は、しょうせつにとっちゃ一番大事な関係で、枚数の長さを補うものが心理描写であるか、風景描写であるか、何であるかによって、補い得るものが決まってくる。どうもそれが、もう一つ捕らえていないという感じを持った。つまりこの人はプルーストであるか、つまり人が二十枚で書くものをおれは百枚で書かなければならないんだという必然性があるかということ。その強さがあるかということが、最後まで問題として残る。

Saturn's Ring
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