ビデオ/オーディオ

気がついたら、動画・音声の時代がやってきたみたい。

19/05/2021

 2021年5月16日開催の第33回カシワ読書会から、自分が紹介した表記の本の部分。
 紹介だけで14分ほどかかっている。参加者には、今日のひとりあたりの持ち時間は15分です、とアナウンスしておきながら、自分はほぼ全て紹介で使い切っている。質問タイムがまた長く続き(有難いことではあるが)参加者中一番自分が時間を使っている。
 もー、どうしようもない。なんとかならんものか。(←自分)
 とは言え、本の中身はオススメできる。
 今や民主主義を台湾から学ぶ時代になった。
 後進国、日本。謙虚に行くしかないです。

01/05/2021

 毎月開催しているカシワ読書会。その4月の読書会から。


 昨年やった、「ナウシカからコロナを考える〜」という講座で、その講座を開催するきっかけになったNHKの番組に出演されていた伊藤亜紗さん。面白いことを言う人だなぁ。そう思うようになって、注目していた。
 そして、「利他」を主題にした本が出る、と知り、5人の執筆者の中に伊藤さんがいて、中島岳志、國分功一郎などの筆者が書いているとなれば、これは読まないわけにはいかない。という訳で、早速読んで最初の伊藤さんの論に感激。すぐに読書会で取り上げました。
 が、相変わらずのしどろもどろの時間に追われての、いや、自己嫌悪で終わりました。なんとかならないのかなぁ、俺。
 

31/03/2021

今年も、春がきた。
3月、人が去り。
4月、人が来る。
ぼくは今日、まだここにいる。
それでも、明日のことは、誰も知らない。
それでも、明日は、来年の春は、またやってくるだろう。
そこに、ぼくがいようがいまいが構わずに。

20/03/2021

 本の紹介については、例によって極めてテキトーだが、ビデオを見ていただけばと思います。
 以下は、ちょっと補足です。

 ざっと半世紀前、ぼくの感覚では1970年くらいまでは、ぎりぎり文学者の発言というものが、社会の中で、あるいは少なくとも論壇の中で、重みを持っていた。しかし、それ以降、文学者の発言が重んじられることは(形式的にではなく、実質的に、社会を動かすようには)なくなっていき、代わりに例えば学者が学説を述べる(でなくても、学者の言説の方が重んじられていく)ようになっていった、という気がしている、とビデオの中で述べた。
 そうだとして、なぜそうなのか。そのことを考えてみたい、と。
 理由は複数考えられるだろう。
 時代が複雑化した、とか。文学の言葉で語りきれない時代になった、とか。いろいろ。
 代わって現れたのは、一億総評論家時代のようなことだったのかもしれないし、そうでなくても、専門家(主に学者)がその専門分野について語る、それなら信用してもよい、ということだったように思う。
 ところが、今や、その専門性や、学問に対する尊重というものも、随分と軽くなりつつある、そう感じる。違うだろうか。かつての文学者の言葉のように?
 そうかもしれない。
 なぜ文学者の言葉がある時期にリアリティを失っていったのか?
 そして今、専門家や学者の言葉も同じ道を辿ろうとしているだとしたら?

 ただ、少々事情が異なるところもあるのかもしれない。
 ビデオの中でも触れた、言葉の問題だ。
 あくまでも総論で言えば、文学者の言葉の方が読んでいて楽しい。というか、喜びを感じる。文字を読むこと自体に。学者の中にももちろん、文章家はいて、学智と文章の力を兼ね備えた鬼に金棒みたいな人もいるにはいるのだろうが、やはり文章自体で喜びを感じる書き手は稀だろう。
 いや、学説に頼ったような、腰の入っていない文章や、発言を読まされることも多い。
 そう振り返ったときに思うのだ。
 文学者は、己の文学、という(ご本人にとっては明確かもしれないにしても)実態のはっきりとしないものだけを頼みに、いわば人格を賭けて発言をしていただろう、と。

 文学者の発言の重みの源泉はそこにあり、またその重みが失われたとしたら、失われたのはそのような文学のあり方を受け入れる社会、の方なのかもしれない、と。


 通俗的な学智に頼って、人格の一部をも賭けているか怪しいような「解説」を垂れ流す専門家、学者の姿に、我々はこれ以上慣れてはいけないのではないか、そんなことをもつい考えてしまう。

18/03/2021

 2020年7月、第23回のカシワ読書会から、「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)のご紹介部分です。
 毎度、時間におさまらず、ぐだぐだになる様子に興味をお持ちいただけるという奇特な方のみご覧ください。