⑤第31回カシワ読書会から、「みんなみんな逝ってしまった、けれど文学は死なない。」(坪内祐三)

20/03/2021

 本の紹介については、例によって極めてテキトーだが、ビデオを見ていただけばと思います。
 以下は、ちょっと補足です。

 ざっと半世紀前、ぼくの感覚では1970年くらいまでは、ぎりぎり文学者の発言というものが、社会の中で、あるいは少なくとも論壇の中で、重みを持っていた。しかし、それ以降、文学者の発言が重んじられることは(形式的にではなく、実質的に、社会を動かすようには)なくなっていき、代わりに例えば学者が学説を述べる(でなくても、学者の言説の方が重んじられていく)ようになっていった、という気がしている、とビデオの中で述べた。
 そうだとして、なぜそうなのか。そのことを考えてみたい、と。
 理由は複数考えられるだろう。
 時代が複雑化した、とか。文学の言葉で語りきれない時代になった、とか。いろいろ。
 代わって現れたのは、一億総評論家時代のようなことだったのかもしれないし、そうでなくても、専門家(主に学者)がその専門分野について語る、それなら信用してもよい、ということだったように思う。
 ところが、今や、その専門性や、学問に対する尊重というものも、随分と軽くなりつつある、そう感じる。違うだろうか。かつての文学者の言葉のように?
 そうかもしれない。
 なぜ文学者の言葉がある時期にリアリティを失っていったのか?
 そして今、専門家や学者の言葉も同じ道を辿ろうとしているだとしたら?

 ただ、少々事情が異なるところもあるのかもしれない。
 ビデオの中でも触れた、言葉の問題だ。
 あくまでも総論で言えば、文学者の言葉の方が読んでいて楽しい。というか、喜びを感じる。文字を読むこと自体に。学者の中にももちろん、文章家はいて、学智と文章の力を兼ね備えた鬼に金棒みたいな人もいるにはいるのだろうが、やはり文章自体で喜びを感じる書き手は稀だろう。
 いや、学説に頼ったような、腰の入っていない文章や、発言を読まされることも多い。
 そう振り返ったときに思うのだ。
 文学者は、己の文学、という(ご本人にとっては明確かもしれないにしても)実態のはっきりとしないものだけを頼みに、いわば人格を賭けて発言をしていただろう、と。

 文学者の発言の重みの源泉はそこにあり、またその重みが失われたとしたら、失われたのはそのような文学のあり方を受け入れる社会、の方なのかもしれない、と。


 通俗的な学智に頼って、人格の一部をも賭けているか怪しいような「解説」を垂れ流す専門家、学者の姿に、我々はこれ以上慣れてはいけないのではないか、そんなことをもつい考えてしまう。